第弐章:3 『4−2=?(3)』
1999/6/29
田中加奈子の視点から見えるモノ

教室に着くと、昨日と同じ光景が広がっていた。
立ち話をする生徒は何時もと同じ配置、火狩が本を読んでいる事も同じ。退屈な繰り返し。
教科書などを鞄から出していると、登校したばかりの山田が、向こうから傍に寄って来た。
今朝の邪の様子といい、珍奇な事という物は、重ねて訪れるものらしい。
私があの写真のネガを持っている事から、普段は近くに居る事さえ嫌がると言うのに。
「あの、田中さん…邪さんが、屋上で待っているそうですが…」
例に漏れずウジウジした、聞いているだけで気分が悪くなる声だ。これだから、私は山田が嫌いだ。無意識に選別したつもりだが、私の『玩具』選びにも影響したのかも知れない。
しかし今、重要なのはそれではない。
「邪さんが…?」
朝の続きだろうか。転校生、この学校に馴染めていない者特有の正義感で、私たちの悪行を明るみに出させる訳にもいかない。邪の正義感、という語呂は、少しだけ気に入ったが。
「まあ良いわ、行って来ます。そこ、退いてくれる?」
少し強い声で脅すと、山田は慌てて道を譲った。少しだけ、気分が良くなった。
背を丸める様にして自席に戻る山田の横を悠然と通り過ぎ、私は屋上へと向かう。

屋上へ続く、重い鉄の扉を開ける。しかし、邪の姿は見えなかった。
「邪さん、人を呼び出しておいて、何処に居るのかしら?」
少しサディスティックな言い方になってしまった。加虐趣味は無いつもりなのだが。
姿の見えぬ邪を求め、扉をくぐり屋上へ出る。曇り空の所為か、今日は少し風が強い。棚引く風に眉を顰めつつも、私は周囲を見渡した。
「初めまして、田中加奈子」
朝と同じ、聞き慣れない男の声。私は声のした方向に振り向いた。
「貴方…誰?」
屋上の貯水タンクの上、赤いマントの男が立っている。体を覆うその深紅は、あたかも鮮血を塗したかの様に見えた。それでいて目に痛い程ではなく、美しい赤だ。
彼はタンク上から、扉を遮る様に私の前に降り立った。
「俺か。俺は、お前を…」
その時、一陣の突風が吹いた。風の音が荒れる中、彼の口の動きだけは見えた。
音は無くとも、その口から紡がれた言葉は、笑いたくなる程、本能的恐怖に直結しすぎて。
私は、俄かには信じられなかった。彼が、私を殺すだなんて。
冗談じゃない。初対面の名も知らぬ相手に、いきなり殺されるなんて。通り魔ならいざ知らず、彼は私のことを知っている様だ。そも、彼の待つここに私を送ったのは、あの山田と邪ではないか。少なくとも、そのどちらかが裏で絡んでいる事は間違い無いだろう。
「貴方、山田と邪の何?」
彼はフードの下、僅かに見える口だけでせせら笑った。
「いやはや、実に勘が良いお嬢さんだ。でもな、一つ覚えておいた方が良いぜ、田中加奈子。暗殺者って奴は、必要以上には喋らないモノだ」
赤マントは言葉を続けながら、すっ、と右手を伸ばした。その掌、煌く白光。
それが鋭く研ぎ澄まされた投擲用短剣と気づいた時、しゃん、と澄んだ鈴の音が響いた。
否、それは鈴の音ではない。その証拠に、足元のコンクリートから短剣が生えている。
鈴の音と聞き違えたのは、きっと。その鋭すぎる攻撃が、それを恐怖だと感じるには、余りに芸術めいていたからだろう。
「田中加奈子、畏れる事は無い。誰もが何時しか通る道、他人より少し早いだけだろう?」
短剣を指先で回転させて柄を上向け、刃を指の間に挟む。彼は一連の動作を一瞬でやってみせると、私の方を向いて言った。何処から取り出したのかは知らないが、彼の手には、今や数本の短剣が握られていた。
しかし、これは好機でもある。あれは投擲用短剣、斬撃には向かない構造だ。確かにその貫通力には恐ろしいものがあるが、距離に比例してその恐怖は減少する。余りにも近すぎる場合、投擲は出来ず、しかし、同時に何本も持っていては刺す事も出来ないからだ。つまり今、距離さえ詰めれば勝機は有るという事になる。

一瞬でここまで考えられた自分の脳に賛辞を送り、私は思い切り地を蹴った。
先の短剣が逆行するかの様に、虚空を駆ける。疾走のスピードに全体重を乗せ、肘打ちを繰り出す。昔、父に無理やり習わされた合気道が、こんな場面で役に立つなんて。
肘が、赤いマントに突き刺さる。狙い違わず、胸板で炸裂。私は勝ちを確信した。
胸骨を折り、肺を破った手応えが有った。しかし、念には念を入れ、私は掌で顎を打った。
既に硬さを無くしていた首を、振り子の様に跳ね上げる。頸骨の破砕する、乾いた音。
かは、と音にならない悲鳴を残し、赤マントは地に臥した。
力無く崩れ落ちた赤マントに、私は哀れみの視線を向ける。
「残念、相手が悪かったわね」
言い残し、立ち去ろうとした私の耳に、底冷えのする声が届いた。
「…ああ、そうだな。相手が悪かったな」
「―――!」
振り向く私、立ち上がった赤マント。フードが外れ、その灰色の髪と瞳が露になる。
その目は、氷よりも冷たい殺意と炎よりも熱い憎悪で溢れていた。
「そ、んな…効いて、ないの…っ!?」
思わず間抜けな問いを投げかける私に、彼は右手で額を覆って哄笑した。
「痛かったさ、そりゃ涙が出る程に痛かった。田中加奈子、お前も長生きがしたかったら、人が嫌がる様な事はするものじゃないぜ」
恐ろしげな言葉を、さも楽しそうに綴る赤マント。私はじりじりと後退りする。彼はゆっくり、尚且つ確実に私の退路を奪いながら近寄ってくる。
右足に力を入れ、跳躍。しかし、目の前の金網に彼の短剣が突き刺さった。彼は私が左右に動こうとすれば、その先に短剣を投擲する。動きを半分奪われた訳だが、私も我武者羅に突進するほど愚かでは無い。そう、私に許された道は後方だけなのだ。
学校の屋上。そう広くない、囲む金網。今、その様はコロッセウムにも見える事だろう。暴君がキリスト教徒を獅子と戦わせたという、あの惨劇の舞台に。
か、しゃん。乾いた金属音が、私の背中から響いた。金網が、私の背中に押し付けられる。
「た、助けてっ…な、何か悪い事をしたなら謝るから、こ、殺さないでっ…」
そこには柄にも無く涙声で哀願する私と、冷静に状況を見つめるもう一人の私が居た。
赤マントの彼が微笑む。ナイフを収め、凍った微笑を崩さずに中腰になると、囁いた。
「なあ、田中加奈子。お前は山田にそうしたのか?」
恐ろしく、残酷な一言。自業自得、因果応報。そんな四字熟語を冷静な自分が思い出す。
「もうしない、もうしないから、殺さないでっ…」
溢れる涙で視界が霞む。四肢は怯え、まともに言う事を聞かない。じわ、と股間に広がる温もり。どうやら恐怖の余り、失禁してしまった様だ。けれど、死にたくなかった。人前で失禁した。それだけで、死にたい位恥ずかしいのに。
「田中加奈子、最後に何か言い残す事は?」
かつ、と屋上のコンクリートが響く。一歩ずつ私に近寄る、赤いマントの暗殺者。
「嫌ぁ…し、死にたくないっ…」
がしゃん。後退りした私は完全に、金網に背を預ける姿勢となった。背の肉に喰い込む金網は痛い。しかしそれは、何物にも代えがたき生の実感に他ならなかった。ああ、こんなにも。こんなにも、私は生きている。彼が足を踏み出し、私はまた一歩後退り…
―――――――――え?
私の背を支えていた金網が、忽然と姿を消した。毎秒9.8メートル。逃れがたき重力の鎖に縛られながら、私は彼が投げた短剣の、本当の意味を知る。あれは、私を殺す為じゃない。金網を脆くする為に投げられていた物だった。
私は聞いた、崩れる音を。それは世界か、私自身か。何も、分からなくなった。

田中加奈子、享年十七。死因、屋上からの転落。死亡年月日、一九九九年六月二十九日。

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今回のBGM ベルリオーズ作曲『サバトの夜の夢』
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