第参章:1 『4−3=?(1)』
1999/6/30
菅原樹の視点から見えるモノ

教室は静まり返っていた。しかし、それで居ながら、蠢く様なざわめきが途絶える事は無い。それの話題は分かりきっている。昨日の、田中加奈子の投身自殺騒ぎだ。
田中さんが山田さんを虐めていた事は、言わば公然の秘密だった。それで山田さんが自殺するのなら、まだ理解できる。しかし、田中さんが屋上から身を投げた事に納得がいかないのだ。皆、あの田中さんが「自分の罪に耐えかねる」女性で無い事は、心の内では理解しているのだ。
実際、かく言うこの僕だって、田中さんが屋上から飛び降りた理由は分からないし、山田さんがそうしたのなら、すんなり納得しただろう。けれど、事実は事実。真実を受け止め、そこから自分なりの結論を導き出さねばならない。それが現実という物だ。かの高名な哲学者も言っている。『およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない』、と。

しかし、この学校は何を考えているのだろう。
仮にも人が一人死んだと言うのに、休校にもならない。まあ、この学校は中途半端な進学校なので、それは仕方ないとしよう。教師連中は、一日授業を休めばそれだけ進学率が下がる、と信じているのだろうから。しかし、それでも、せめて全校集会くらい開くべきだ。
例えそれが、『皆さんも安易に自殺などせず…』等といった常套句の並べられる、校長の眠気誘発スピーチの独壇場となる事が確実だとしても。
幾ら何でも、朝礼で簡単に『悲しい事件でしたが…』程度で済ませるのは、どうにかしていると思う。もっとも、学校も戸惑っているだけなのかも知れない。田中さんの死は一応、自殺とはされたものの、不審な点が多すぎる。今も屋上に警察が来て捜査している事が、そのいい証拠だ。
僕は、何故だか無性にそれらの真相が知りたくなった。
別に、田中さんの仇を取りたい訳じゃない。田中さんには失礼な言い方になるけれど、僕は、自分の周囲に不可解な出来事が存在する事が許せないだけだ。世界というものは、慄然とした法則に支配され、正確に記述し得る存在であるべきだ。

とりあえず、田中さんの件についての不可思議な点を列挙しよう。情報を整理する事で、新しい道が開けるはず。かの名探偵も言っていた。『百の事件を良く知っておけば、百一個目の事件は解決できる』
…第一に、自殺の理由が無い事。先の「罪に耐えかねて」説の他には、今世間を賑わしている『予言』に絶望して、というワイドショーが喜びそうな理由も噂の端にのぼっていた。もっとも、そんな事は解明しようも無い。本人、田中加奈子その人以外には。
…第二に、屋上の金網を切り取った事について。ただ自殺したいだけなら、金網を登ればいい。運動神経の鈍い僕ならいざ知らず、普通の高校生ならそれくらい簡単だ。まして、自殺しようという人間は怪我などを恐れるはずも無いのだから。
…第三に、山田さんの証言。田中さんに虐められていたため、真っ先に容疑者にされた山田さん。しかし彼女が、田中さんが飛び降りた時に教室に居た事は、僕を含め数人の知る所。彼女は、(田中さんの死が殺人だったとしても)犯人ではない。
以上三点。僕は一人、教室の片隅で頭を捻っていた。

「―――わら?ねぇ、聞いてる?菅原?」
…?
呼ばれた気がして、顔を起こす。すると、目の前に女子の制服が見えた。校則で義務付けられているネクタイも着けず、開放的に着こなしているのは……火狩さんだ。
「あ、やっと気付いた。少し話が有るんだけど。顔、貸してくれる?」
ほとんど不良の台詞だが、火狩さんがそういう人でない事は知っている。ただ単に、言動が――良く言えば奔放、悪く言えば粗野――なだけだ。僕は頷き、彼女の後に付いて行った。

教室を出て、階段を降りる。人目をはばかる様に、火狩さんは旧校舎の鍵を開けた。確かここは、取り壊しが決まって立ち入り禁止になった筈なんだけど。まぁ、火狩さんの事だ。僕が知らないミステリアスな人脈でも在るのだろう。彼女の言動に逐一合理化を求めていたら、疲れきって死ぬ。僕にはその自信があった。
さて、当の火狩さんはと言うと、教室の一つに入り、転がっていた椅子を二つ並べていた。片方に腰掛け、もう一方を軽く掌で叩く。座れ、という意味だろう。僕はその好意に甘える事にしたが…結構埃っぽい。制服、汚れないと良いけど。
「さて、と。ねぇ、菅原…」
火狩さんは、彼女にしては珍しく目を伏せた。数秒の沈黙の後、少し大きく息を吸い、何か重い決心をした目で顔を上げる。僕は、その鋭い視線にたじろいだ。
「菅原、あんたを信頼して言うけど」
田中の死は、自殺なんかじゃない。あれは、邪がやった事だと思う。
火狩さんはそう言いきった。その瞳は自信と憎悪、そして深い悲哀に染まる。決して、ただの思いつきや冗談では無い目だった。
「でも…確かにそうだとして、それを僕に言って何
「だから、あんたに私の捜査…と言える程でも無いか、を手伝って欲しい」
                        …えぇ!?」
突拍子も無い、火狩さんの申し出。確かに、彼女の提案は僕にとって渡りに船。しかし、彼女は何故そんな事を言うのか。僕と同様に、田中さんの仇を討つと言う訳でも無さそうだ。僕は恐る恐る、その疑問を口にした。
「…あんたは、田中の死の真相を知りたくないの?私は知りたい、だから、調べる。それだけよ、菅原。あんたも、田中の事考えてたんでしょ?そういうのは、雰囲気で分かるから」
ま、死体に群がる鴉同士のシンパシー、って奴かな。火狩さんはそんな失礼な事まで言ってくれたが、それも半分は的を射た意見だ。僕は反論する気を失い、そればかりか、彼女に協力したいと半ば積極的に思う様にすらなっていた。

古井戸の底、その一番暗い部分を塗り込めたような漆黒の髪。
夜の闇すらも切り裂けそうな、鋭敏なナイフを思わせる双眸。
冷たい白磁の焼き物を髣髴とさせる、純白で曇り一つ無い肌。
その様な肌に一点だけの彩りを添える、唇は赤く艶めかしい。
それらが、火狩アイ。そこからはぞっとする程暗く、心惹かれるイメージを持つ少女が浮かび上がる。彼女に、鴉という言葉はしっくりと馴染んでいた。それは例えば、肺病みの詩人に阿片がそっと馴染む様に。
僕は彼女の手をとった。彼女はほんの数ミリ、口の端を歪めると……綺麗な微笑みを、返してくれた。

―――直感が告げる。
   もう、平和な世界には戻れない、と。

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今回のBGM ショパン作曲『エチュード“革命”』
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