第参章:3 『4−3=?(3)』
1999/6/30
邪魔夜の視点から見えるモノ

世界は広い。語り得ぬ事が、余りにも多すぎます。未だ語られざる物語は、後幾つ存在するのでしょうか。ああ、こう言い換えても良いですね。世界を正しく見るには、何をすれば良いのでしょうか、と。
兄さんが山田さんの家に行き、私は一人で暇を持て余していました。何かに急かされるのは嫌いだけれど、何もする事が無いのはもっと嫌いです。だって、私が居なくても何も変わらない、という事ですもの。自分中心に世界が回っているなんて、そんな幼児的万能感は生憎と持ち合わせてはいませんが、それでも自分は誰かに必要とされていたいと思います。
退屈で仕方なくなった私は、一人、朝早く学校に行く事にしました。

案の定、校門はまだ閉まっていました。けれど、それが何だと言うのでしょう。壁があれば、それを迂回か破壊かすれば良いだけでしょう?私は今までそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくつもりです。私は兄さんみたいに器用じゃないから、壁を利用して更なる高みを目指す、なんて事は出来ませんし。とにかく、私は校門をよじ登る事にしました。
「よい、しょ……っと」
何とか校門を乗り越え、私は学校に侵入しました。初夏とは言え、早朝は空気がまだ少し冷えていて、清清しささえ感じさせられます。何故かそんな事だけで嬉しくなり、私は歌を口ずさみながら校庭を横切ると、校舎の方へと向かいます。
誰も居ない場所は素敵ですね。何も音がしないし、何の温もりも無い。世界がただ、私だけのために存在するかのような錯覚すら感じさせてくれます。
私は目を細め、学び舎を眺めました。四階建て、無骨な鉄筋コンクリート製。この国中、何処にでも在りそうな平凡な校舎。平凡というのは良い事ですね。出る杭は打たれる、という言葉がありますが、それは真実です。平凡であるという事は、ある意味では最高に非凡なのですが、それはまぁ、置いておきましょう。それはまた、別のお話です。

校庭でぼんやりとしていると、人影を見つけました。朝早く、厳密には午前五時半。こんな時間には、先生たちも来ていないに違いありません。さてさて、それではあの人影は誰なのでしょうか。強烈な好奇心に駆られ、私はゆっくりとその人影に向かって歩み始めました。
『いっ、いひっ…ぐ、ふ、ぐ、きぅ…くぅ…ぎい…』
なんだ、誰かと思えば田中さんですか。あらら、田中さん、どうしたんですか。言葉がはっきり発音できていませんよ?先日はあんなにはっきり、私を嫌ってくれたじゃありませんか。
―――ああ、頚骨が折れていらっしゃるのですね。それでは、その発音も仕方ないでしょうね。これは失礼しました。
『あ、あはっ!…ぐあ、ぎいぃっ……がぁ、ごぼっ…』
田中さんは、真っ赤に染まった両腕を伸ばし、私を捕まえようとしました。首が座っていないので、頭がぐらぐら揺れています。だらりと垂れた髪の毛の隙間、爛れた様な顔が覗きました。ああ、何て醜悪な。けれど、身震いする程素敵ですよ、田中さん。こんな状況になってでも、私を取り殺そうとしてくれるなんて。貴女はやっぱり最高です。
本当に、こんな――――――面白い見世物は、久しぶり。
『あ、あうああっ!』
けれどね、田中さん。山田さんや火狩さんならともかく、貴女程度の存在に殺される程、この私、邪魔夜は甘くない。私自ら、身の程と言うモノを、貴女に教えて差し上げましょう。もっとも、半分以下にまで脳漿を零した貴女の頭で理解できるなら、の話ですけれど。さあ、講義を始めましょうか。

『がぁ、ふぐ…ひ、ひきぁ…ごぼ…』
ふぅ。この程度ですか、田中さん。残念です。貴女なら手足をミンチにしても、腸を引きずり出しても、最後まで私に向かって来てくれるかと思ったのですが。どうやら期待外れだったようですね、もう終わりにしましょう、田中さん。もし貴女の痛覚や脊椎が存命なら、もう少しお相手しても良いのですが、貴女は所詮死人ですからね。それに、もう六時になりそうですから。気の早い教職員の方が、ご出勤なさらないとも限らない時間でしょう?さぁ、引導を渡してあげましょう。

初夏の校庭に、凛と澄み渡る歌声が響く。

――――――我に来よと主は今優しく呼び給う
      などて愛の光を避けてさまよう
      帰れや…我が家に帰れや…と主は今、呼び給う
      疲れ果てし旅人重荷を下ろして、来たり憩え
      我が主の愛のみもとに
      帰れや…我が家に帰れや…と主は今、呼び給う
      迷う子らの帰るを主は今、待ち給う
      罪も咎もあるまま来たりひれ伏せ
      帰れや…我が家に帰れや…と主は今、呼び給う

「賛美歌517番―――何の真似ですか、火狩さん」
「私、キリスト教徒だから。一応、鎮魂歌のつもりなんだけど?」
「――――――誰に対しての、です?」
「――――――さっきのは田中に。いずれ、あんたにも」
火狩さんは不敵に笑うと、私を捨て置いて校舎へと向かいます。田中さんの姿は消え失せ、耳には忌々しい賛美歌の残滓がこびり付く。
「私を、殺せますか?」
私は彼女を睨みつけると、嘲る様に言いました。
彼女は首だけ振り返ると、囀る様に言いました。
「知れた事。その六銭、無用と思え」
彼女は本当にキリスト教徒なのか、という根本的な疑問が残りましたが、私は彼女を見送りながら確信しました。
あれは、危険な存在だ、と。

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今回のBGM 滝 廉太郎作曲『憾』
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