第参章:5 『4−3=?(5)』
1999/6/30
火狩アイの視点から見えるモノ

Demiourgos。
カタカナで読むならば、デミウルゴス。
キリスト教の異端、グノーシス主義における、創造主を指す語だ。堕落した神様、もしくは悪魔。不完全な世界を創造し、あらゆる生命を苦しめた張本人。時にヤルタバオト(Yaltabaoth)とも呼ばれる偽神。それが、この短剣に彫られた文字だった。
「冗談。こんな物、あの田中が持っている訳が無い。かといって、邪なら証拠品を落としていくなんてミス、犯す筈も無いし…」
そう、問題はそこだった。今朝の件から邪が関わっている事は確実だとしても、また別の関係者が居るという事。私の思いつく候補は、山田ただ一人だった。
けれど山田は、田中が落ちていく時には教室に居た気がする。記憶を弄ってみるが、はっきりとした事は思い出せなかった。…そうだ。こういう時のための相棒だろう。
「ねえ、菅原。田中が落ちた時、山田がどうしてたか知ってる?」
菅原はしげしげと眺めていた短剣から目を離し、こめかみを押さえて黙考した。眉間に皺を寄せて唸る菅原は、どこか小動物にも似ていて、無性に撫でてやりたくなった。一応、女色の気は無いつもりなのだが、私も女子から告白されたりする内にそういうモノが芽生えてきたのかも知れない。何か嫌だけれど、変わってゆくのが人生というものだ。
そんな不毛な考えに支配されていた私だったが、菅原の声で現実に帰った。
「山田さんは…確かあの時は、教室に居た様な気がしますけど」
とすると、私の知らない第三者か、もしくは…思いもよらない伏兵が、この事件の犯人、という事になるだろう。死んだ田中にとっては相当不謹慎な物言いになるが、こう思わずにはいられない。
『なかなか面白い事になってきた』、と。

それ以降も屋上をくまなく二人で捜し回ったが、例の短剣以外には、これといった収穫は無かった。現場保存の為だろうが、金網の一部が欠けた屋上。その上には、薄雲一つ無い、綺麗な青空が広がっていた。

四時間目終わりのチャイムが鳴った。これ以上ここに居ても、ただ暑いだけで何も収穫は無いだろう。それに、昼休みになった以上、教師や物好きな生徒がやって来る可能性も否定しきれない。そう判断し、私は菅原を促して屋上を去る。例の短剣の管理は、菅原に任せる事にしよう。私は自分が粗忽者だという自覚がある。私が管理して、紛失したなどとあっては見つけてくれた菅原に合わせる顔が無いではないか。
重い鉄の扉を閉める。アイアンメイデン、鋼鉄の処女が閉まったかの様な轟音を立て、屋上への扉は閉ざされた。こんな時に中世の拷問器具を思い出してしまう私に苦笑し、下らない邪念を振り払う。さて、扉は閉めたが、こじ開けた鍵はどうしようも無い。開錠に使った針金では施錠は出来ないので、そのままにしておこう。まあ、学校もこれを教訓に、もう少し上等な鍵を購入すれば良いだろう。少なくとも、生まれてこの方十六年、ピッキングなんてほとんどした事が無い私が簡単にこじ開けてしまえる様な、安物の鍵なんて止めたほうが良いに決まっている。

短剣を渡し、その管理を頼むと、菅原はそれをご丁寧にハンカチで包んだ。こういう几帳面な所は素直に尊敬できる。私なら剥き身で鞄に放り込んで終わり、だろう。
「痛っ!」
菅原の小さな悲鳴に、急いで振り返る。そこには、右人差し指から血を流し、苦痛に顔を歪めた菅原の姿があった。恐らく、短剣で指の腹でも切ったと見える。傷自体は浅い様だし、切れ味は鋭そうだったから、傷跡が残る事は無いだろう。しかし、目に見えぬほど細かい錆が体内に入る事によって引き起こされる化膿などの心配はある。
「菅原、ちょっとごめん」
一応断りを入れるが、返事など聞く気は最初から無い。私は彼女の右手をとると、人差し指を口に含み、強く吸った。じわ、と酸化鉄の味が喉の奥に広がる。
毒物が体内に侵入し、すぐに解毒できない時に手っ取り早いのがこの方法。傷口から直接吸い出す、というものだ。蛇の毒などにも、ある程度までは有効。もっとも、これだって私の口の中にいる細菌等も考えれば、お世辞にも衛生的とは言えない。その上、毒を吸い出した私自身が吸収してしまう危険もある。だがしかし。保健室に行って『短剣で指切ったから、治療してください』と言うよりはまだマシだろう。
今の私を傍から見れば多分、扇情的な行動をしているように映るだろうが、頭の中は冷めていた。ただ、冷めていたのは私に限れば、だったが。
「えっ!?あ、あの、火狩さん!?」
取り乱す菅原。予想以上に初心なようだ。見知らぬ男にされたならまだしも、見知った同性に指を咥えられた位で、ここまで取り乱す必要も無いだろうに。
私は彼女の指を口から離すと、ポケットからティッシュを取り出し、吸い出した血液を吐いた。口に唾をため、何度か吐き出す。これで一応洗浄は終わったが、あとで嗽しておいたほうが良いだろう。絆創膏でも張ってやれば、菅原も病院には行かなくて大丈夫。私は財布を取り出すと、中から絆創膏を取り出した。
「菅原、訊くけど」
「は、はひっ?な、何ですか、火狩さん?」
まだ動揺している菅原。妙に顔を赤らめ、呂律もまわっていない。酔っているのか、と茶化しかけたけれど、責任は私にある事を思い出し、断念した。残念だ。彼女はからかい甲斐がありそうなのに。そう、ちょうどこんな具合に。
「普通の絆創膏、苺模様の絆創膏、犬模様の絆創膏。どれがいい?」
「………普通の絆創膏で、お願いします」

お盆を抱え、菅原と一緒に学食の隅に陣取る。毎日学食に通い詰めた成果か、一番隅は火狩アイの指定席、との不文律があるので、少し混み始めた学食でも簡単に座る事が出来た。
「菅原、あんた本当に、お昼そのきつねうどんだけで足りるの?」
「はい、充分ですよ。むしろ、その…火狩さんが、異常かと」
正面には、きつねうどんをはふはふ言いながら食べる菅原。昼食があれだけでいいなんて、育ち盛りの高校生としては信じられない。学食名物のカツカレーうどん定食を掻きこみながら、私はそう考えていた。
「にしても火狩さん、意外と女の子らしいんですね」
菅原は、平気で人の気管を詰まらせる。急いで水を流し込み、なんとか窒息死だけは免れた。今、菅原はなんと言った?誰が、何らしいって?
「だって、今時財布に絆創膏入れてる子なんて少ないですよ。それも、あんな可愛い柄の絆創膏を。火狩さん、ああいうの好きなんですか?」
ころころと笑う菅原。彼女自身には悪気は微塵も無いのだろうが、居たたまれない気持ちになってきた。
私は引きつった笑いを漏らしながら、視線を逸らす。自分では隠してきたつもりの少女趣味が露見してしまったようだ。そう。私、火狩アイは、自室の棚の上にぬいぐるみを飾るような少女趣味の女なのだ。恥ずかしい。余りにも、恥ずかしすぎる。こんな事が他人にばれては、明日からどんな顔で学校に来ればいいんだ。
私は神に祈った。もう好き嫌いは言いません、ピーマンも残さず食べます。だから、鞄の中のソーイングセットだけは、菅原に見つけさせないで下さい、と。

今日は、空が抜けるように青い。
こんな日は、きっといい日になるだろう。

続劇 > 『4−3=?(6)』


今回のBGM ベートーヴェン作曲『君を愛す』
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