第参章:7 『4−3=?(7)』
1999/6/30
菅原樹の視点から見えるモノ

きつねうどんを食べ終え、その食器を返却する為に立ち上がろうとする。ところが、火狩さんが僕を手で制した。
「どうしたんですか、火狩さん」
彼女は人差し指を唇に当て、僕に黙るよう指示してから、僕の後方を指差した。僕はもう一度椅子に座ると、ポケットから手鏡を取り出し、自分の顔を見るふりをしながら後方を確認した。そこには、邪さんの姿があった。
(邪さん、ですか?)
声をひそめて確認する。火狩さんは頷くと、囁いた。
(見られてる。私があいつを疑ってるのはもうばれてるだろうから、何か聞き出せないか探ってるんでしょ)
ぎり、と火狩さんが歯噛みする音が聞こえた。邪さんに悟られない様にか、表情は殆ど変化していない。けれど、至近距離で見ている僕には、火狩さんの悔しそうな思いが手にとるように伝わった。
(しくじった。定位置にいたら、邪に見つかりやすい事位、十分に分かり切った事だったのに)
心の底から自分の失態を悔やむ火狩さん。追っているつもりが、何時の間にか獲物に追われる様になってしまった狼の様にも見える。
(けれど、チャンスだと思いませんか?邪さんがこちらに接触しようとしたら、その時は公平に、相手の情報を聞き出す機会があるんですよ?)
我ながらかなり良い考えだと思って言ったのだけれど、火狩さんは目を伏せ、ゆっくりと頭を振った。
(あの邪は、そこまで甘い女じゃ無いよ。今朝少し話したんだけど、あれは危険。菅原も変な考え起こして接触しない様にね)
ぴし、と釘を刺してから、火狩さんはふと肩の力を抜いた。眉間に寄せていた皺を伸ばし、どこかリラックスしたような表情になる。何時の間にか空っぽになっていたカツカレーうどん定食の食器をまとめてお盆に載せると、すっくと立ち上がりながら言った。
「ま、いいか。菅原、安心しなさい。あんたは、この私が守ってあげるから」
火狩さんは、獲物を狙う猛禽類のような目つきで邪さんを見た。僕はと言うと、先の火狩さんの言葉に動揺し、耳まで真っ赤になってしまっていた。

「邪、こっち来ない?」
邪さんに手を振りながら、お盆を片付けて、お茶碗にお茶を入れた火狩さんが問い掛ける。
邪さんは、数秒考える素振りを見せたけれど、すぐに笑って答えた。
「では、失礼しますね、火狩さん、菅原さん」
邪さんは自分のお盆――見たところ、サラダとコッペパン、パック牛乳だけの様だ――を持ってこちらに来る。火狩さんが、低く呟くのが聞こえた。
「戦闘、開始」

「さて、火狩さん、菅原さん。私、難しい話や回りくどい話は好きじゃ無いんですよ。率直に意見を交換しませんか?お互いに、腹の探り合いなんて見苦しい真似は止めましょうよ。悪い話では無いと思いますよ?」
邪さんはくすり、と喉の奥だけで笑った。彼女の灰色の髪越しに、鋭く輝く瞳が見え隠れしている。それは、さっきの火狩さんの瞳をも凌駕した冷たさを放っていた。そう、火狩さんが『獲物を見る目』だとしたら、邪さんの目は『餌を見る目』だった。
相手の抵抗なんて、小指の先ほども想定していない。ただ目の前にあるものを喰い尽くす、恐ろしい猛獣の様な目。
そんな目に見られ、僕はそれこそ蛇に睨まれた蛙の様に、体が全く動かなくなっていた。
「へぇ、言うじゃない邪。そこまで啖呵きるんだったら、さぞ素晴らしい情報を持っていらっしゃるのでしょうねぇ」
火狩さんは笑う。けれど、横にいる僕からは、彼女のこめかみを流れる冷や汗が見えた。火狩さんも、彼女の言う『危険』な相手と対峙して緊張しているようだ。
「そうですね、それなりには素晴らしいと思いますよ?なんと言いましても、世界の終わりについて、他人より先に知る事が出来るのですから」
邪さんは涼しい顔で、とんでもない事を言い出した。
「世界の…終わり…?」
思わず訊き返す。世界の終わりなんて、性質の悪い冗談にしか思えない。それこそ益体もない例の予言じゃあるまいし。けれど、邪さんの続けた言葉は、まさにその予言そのままだった。
「一九九九年七の月、アンゴルモアの大王が降ってくる。その前後マルスによって幸福のうちに支配がなされるであろう。―――諸世紀第10章72番。世界ではそれ程でもないですが、日本ではかなり有名だと聞きますが」
僕もその予言は、これまでの人生の間に嫌というほど聞かされた。世紀末の終焉、古戦場の丘の名をとった滅亡への不安…ハルマゲドン、アルマゲドンといった言い方のほうが馴染み深いけれど、正しく原語通りに発音すれば、こうなる。
『ハル・メギド』、と。
聖書にもたびたび登場する、古戦場メギドの丘。ヒンノムの谷にあった火の祭壇、ゲヘナとも並び称される、地獄の代名詞な的存在。
それが、まさか実現するとでも言うのだろうか。
「まあ、信じられないのも無理もないですね。いきなり『世界の終わり』なんて言ったって、実感は湧きませんし。けれど、事実は事実です。今日は6月30日。明日は7月1日。その境目、つまり今夜十二時丁度に、世界は終わります」
いわゆる電波系、では無い。そう言いきって邪さんを信じない事は簡単だけれど、彼女の目はそれを許さないほどの確信に満ちている。
「さて、次はこちらの質問に答えてください。貴女方は、何故私を探るんですか?」
僕の理由は分かっている。僕の知らない事が、この世界にある事が許せない。少なくとも、僕の周囲に『分からない事』がある事が苛立たしいし、それにまた、その事が不安でもある。僕は邪さんに、そう答えた。
しかし、火狩さんはどうだろう?彼女は以前、シンパシーだと言った。けれど、それだけではない様な気がする。
そして、火狩さんは答えた。
「だって、なんか面白そうじゃないから」
僕は目を見張り、邪さんは息を飲んだ。
『面白そうじゃない』?
一体どういう意味なのだろうか。火狩さんを見ても、彼女は不敵な笑みを口元に浮かべたまま、邪さんを見続けている。僕は、火狩さんが分からなくなった。

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今回のBGM ベートーヴェン作曲『月光ソナタ』
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