第四章:3 『4−4=?(3)』
1999/7/1
山田ざくろの視点から見えるモノ

ぐしゃり。
鈍い音。アスファルトに激突し、私は砕けた。骨折は鋭利な刃物。皮膚や臓腑、筋肉さえ鎧にはならない。貫き、穿ち、抉り、貪り、三十六度の冷たい水が、私の体から流れ出す。
発痛物質を体内で生成、疼痛を司る神経の末端が刺激を感知。キニン、アミン、アラキドン酸代謝産物。受容体レセプターと情報伝達物質リガンドの結合。感情という名の化学反応が、私の痛覚を玩ぶ。
ピピピピピピピピピピピピピピ。
十二時丁度にセットしたアラームが、砕けた手首の先で耳障りな程に鳴り響く。
痛みは全身を稲妻の速さで駆け巡り、脳と神経が悲鳴をあげる。
私は楽になる為に死を選んだというのに、何故その過程でこんなにも激しい苦痛に苛まされねばならないのか―――!

ツマラナイ。生キル事ハツマラナイ。
あまりの痛みに、気が狂いそうになる。

スバラシイ。生キル事ハスバラシイ。
あまりの痛みに、我に返りそうになる。

「何を下らない事やってるのよ、山田」
火狩の声がする。在り得る筈の無い、けれど、火狩なら在り得るかも知れない、と思わせる様な、火狩の声が。私は痛む首をそろそろと擡げ、声のする方を確認した。
ああ、最低だ。火狩が私を見下ろしている。その横には携帯電話で何処かと話している菅原。火狩は冷静な様だが、菅原はそれと対照的に、ひどく焦った声を出しているようだ。
よく聞こえないから、喧しいとも思えないが。
けれど…血が抜けたせいか不自然なほど冷静な思考が、私に疑問を生じさせる。
世界は、十二時に終わったのではないのか?
終わったとしたならば、何故火狩がここに存在し得る?
終わっていないならば、何故世界がここに存続し得る?
何故だろうか。私が考えたところで意味の無い問いが巡る。ああ、何だかもう、何も考えられなくなってきた。私の身体はゆっくり活動を停止しようとし、私の精神はじっくり闇に溶け込もうとした。けれど、耳元の囁き声に、沈み損ねた意識が浮上する。
「山田。意識無くす前にこれだけは教えて。邪、どこ?」
火狩か。何時の間にか電話を終えた菅原も、横に立っている様だ。私は何の気紛れからか、火狩の問いかけに答えてやる気になった。まぁ、私も長くないと、自分自身で判っているからだろう。それに、邪さんもメギドも、火狩程度にはどうしようもない存在だろうから。
「お…くじょ…う…」
―――驚いた。滑稽なほど、身体の機能が麻痺し始めている。精神はこんなにもはっきりしているのに、身体は一歩一歩確実に死へと歩を進めているのだろう。
「そう、屋上。じゃあ菅原、山田をよろしく。私、屋上行ってくるから」
言い残し、火狩が去った。菅原は小走りに近づき、私の横にしゃがみ込む。
菅原はしばらく無言だった。けれど、意を決したかのように言う。

「世界は、終わりません。いいえ、終わらせません」

私にはもう霞んで見えないけれど、きっと今の菅原は自信に満ちた眼をしている事だろう。この事についてなら、私も自信を持って言える。菅原は、火狩に全面的な信頼を寄せている。例えどの様な困難が二人の行く手を遮ろうとも、彼女達なら超えて行ける気がする。
少しだけ、そんな二人を羨んでみる。
私も人生の選択を誤らなければ、火狩に対する菅原、菅原に対する火狩の様な、唯一無二の相方を見つけることが出来たのだろうか?
そんな夢想は無意味で、無価値で……でも、とても幸せで。
今朝、いや、もう昨日の朝か。彼女が言っていた言葉を反芻する。
『一つ、訊きます。学校に来れば、素敵な恋人、信頼できる友達がいて、楽しく学生として生活する。家に帰れば立派なお父さんとお母さんが待っていて、今日の出来事なんて語らいながら、家族団欒。その後お風呂に入ってさっぱりしたら、暖かなベッドで眠って、また学校に行く。そんな事、実現出来ると思いますか?』
そんな、吐き気がする。彼女はそう言って笑った。気が狂いそうだ、と。
けれど、そんなのは嘘だ。彼女はそれを望んでいないのではない。ただ、それを諦めてしまっただけだ、この私と同じ様に。ただ、彼女は私みたいに中途半端な思慕の情を残さなかった。徹底的にきっぱりと、何の未練も残さずに、幸せな世界を拒絶した。
それが山田ざくろと邪魔夜の、たった一つの、それ故に決定的な差異。
そう悟った瞬間、私の意識は―――

世界が閉じる。

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今回のBGM メンデルスゾーン作曲『歌の翼に』
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