第二章/よって件の如し

翌日の早朝、雪歌の自室。
宮下家の長女、宮下雪歌はベッドの中で声にならない呟きを繰り返していた。
「…カズ…マサ…」
彼女は、その自らが発した声で目を覚ます。上体を起こし、両手で顔を覆い隠すように包む雪歌。長い黒髪が、まるで簾の様に彼女の顔に影を落とす。もう一度、雪歌は呟いた。
「…一正…」
肌蹴たパジャマの間から覗くその胸には、朱の勾玉がネックレスとしてぶら下がっていた。その勾玉を強く強く握り締め、雪歌は涙をこらえた。彼女の胸を焦がす、積年の思いによる涙を。

常世市を統べると言っても過言ではない宮下家。そこは家と言うよりも寧ろ、屋敷と言うべき広さだった。その廊下に、雪歌が歩く音だけが聞こえる。白いコートと、白いマフラー。雪歌は、外に出た。
広がる雪景色。屋敷の庭には、まだ誰の足跡も無い新雪だけが降り積もっていた。
「………」
無言で、一歩。シャリ、と心地よい音がする。雪歌は黙ったまま、新雪の上を歩き続けた。雪が心地よい歌を奏でるのは、ただ一度。一度踏まれた雪は、もう二度と最初の清らかさを取り戻す事は出来ない。
「………」
門の鍵を開け、今日も朝の散歩に出かける。雪歌町。自分の名の由来でもある、この町を、雪歌は歩いた。
「…今日は冷えるわね…」
一人、ただ呟く。返事など、最初から期待してはいなかったのだが。
「ああ、冷えるな」
一正の声。雪歌は微笑を浮かべ、同級生に応えた。
「おはよう、一正君。偶然ね、今日も会えるなんて」
「いや、それは間違いだ、雪歌。俺、雪歌を待ってたんだから」
意外な返答に困る雪歌。自分を、一正が待っていた―――何故?
「おい雪歌、そんな驚いた顔しないでもいいだろ。冗談だよ。昨日のお返しだ」
にやりと一正は意地悪に笑う。雪歌も笑う。仲のよい、普通の同級生の姿をそこに感じ取り、一正は安心感を覚えた。そして、二人はどちらからとも無く今日も一緒に散歩する事を決めた。光永一正。宮下雪歌。二人は、歩く。
同級生の少年と少女…二人は、出会った。
天は抜ける様に蒼く、雲は静かに流れる。白い雪に飲み込まれたかのような町を、ゆっくりと二人は歩いていた。
「一正君、小さいときはよく一緒に遊んだわよね。一正君が引っ越してしまってからは連絡も無かったけれど」
「そうだな、昨日も言ったけど、何となくは覚えてるよ。雪歌、冬子、祝、ありす、それから清美」
名を連ねる一正の後に、雪歌は続けて言った。
「カズマサも、ね」
くす、と微笑みながら目を細める雪歌を見て、一正はまた心が痛んだ。それが何故なのかは、依然として分からないまま。
「でも俺、何で記憶喪失なんかに…」
そうぼやく一正の目を見据え、雪歌は言った。
「…思い出して」
「…え?」
鋭く響いた雪歌の声に、一正は足を止めた。彼女は暗く淀んだ、冷え切った瞳で一正を見ていた。
「思い出してね、カズマサの事…」
何時になく、といってもこの二日の中では、異常に強い語調。一正は背筋に寒気を感じるほどだった。
カズマサの事…?雪歌の言葉を反芻した、その刹那。激痛が、一正を襲った。
ミ×××カズマ×。男性。
××市雪歌町に生ま×る。双子の妹、×××が居る。
カズマサ?KAZUMASAによる――断絶。終了?否。否定。
再会―――中断?―――ミ××××ズマ×。ミヤシタ――セツカ?カズマサ。
妹。双子。ミ××××ヨミ?キヨミ。セツカ。妹。否―――××マサ。
カズマ×――?マ―――マガタマ。曲魂?勾玉。
『カズマサが、死んじゃったもの…』
死。止。詩。私?終了。了承。
「うわあああっ!」

一正の絶叫が雪山に木霊する。幸いにも雪崩などは起きなかったが、声は空しく響き、また、消えていく。
「一正君、大丈夫!?」
叫ぶ雪歌の姿をどこか遠くに見ながら、一正の意識は白くなった。まるで、雪の如く、白く。白く。
「一正君?一正君!」
雪歌は一正を抱きかかえるように、彼の両肩を掴む。
「一正君…こんな事で死んだりなんてしないで…」
小さな声で呟く、白い少女。その胸には、朱の勾玉。彼女は、今一度呟いた。
「カズマサ…」

『カズマサ…』
一正の脳に直接呼びかける様な、澄んだ声。うっすらと、目を開く。
「一正…君…?」
目の前には、倒れた自分に覆い被さる雪歌の顔。潤んだ瞳。少し顔に何かがかかっている様な感覚が在るが、それは雪歌の長い髪が垂れているからだと、すぐに分かった。
「雪歌…俺、どのくらい気絶してた?」
「ほんの二、三分だけど…心配したのよ、一正君。どこか痛む所は無い?」
優しく問う雪歌に、先ほどの冷たい瞳は露ほどの面影すら残してはいない。代わりに、雪歌の頬に一滴の涙が流れた。
「ごめんね、私が変な事言ったせいで…」
目を伏せ、消え入りそうな声で謝る。一正は雪歌の下に転がったままの姿勢で、彼女を見つめた。優しく、美しく、愛しい少女。護ってやりたい、と思う。所詮高校生の自分に、そんな事は不可能かもしれない。けれど、そんな気持ち以上に雪歌を大切に思う。彼女のためなら死んでも構わない、と思えるほどに。
もしかしたら、俺は雪歌と出会うために生まれてきたのかも知れない。
「一正君…?」
普通の恋人みたいに、デートとかキスとか、その先とかがしたい訳じゃない。
「雪歌…ありがとう」
何時までも、守ってやりたいだけだから。だから雪歌、お願いだ。
「頼むから、泣かないでくれ」
「…はい」

心配する雪歌と一緒に、『十六夜』に帰る一正。足元がふらつく一正は、雪歌に肩を借りていた。
「お帰り、お兄ちゃん。朝ご飯の用意出来て…」



清美が笑顔で出迎え、そしてそのままぴたりと硬直した。当然と言えば、当然だ。兄が同級生、しかも女性と肩を組んで仲良くご帰宅。これだけでも少しばかり理解に苦しむ状況だ。その上二人とも多少疲れている様子、とくれば誤解を受けても致し方ない状況であるとも言える。少なくとも、光永清美を誤解させるのにその状況は十分すぎた。

本当は気絶して雪に倒れたので体力を失った一正と、それを支えて疲れただけの雪歌なのだが、清美の脳内で二人は朝も早くから野外で同衾した事になっていたのだった。
「ふ、不潔です!」
『……は?』
一正と雪歌は互いに顔を見合わせ、首を傾げた。

「何だ、そうだったの」
弁解し、何とか清美の誤解を解いたのは実に十分も経過した後の事だった。
「私、てっきりお兄ちゃんが雪歌さんを…」
頬を染めて照れ笑いを浮かべる清美に、一正は言った。
「清美…お前、少しは俺を信用してくれよ」
肩を落とす一正と、赤面する雪歌。一正は雪歌をちらりと横目で見た後、小さな溜息をついた。整った顔立ち。長くて黒いその髪は、夜の漆黒、その奥にある闇を思わせる。よく見ればスタイルもモデル並だった。
全体的に暗いイメージなのは、その双眸の鋭さ故だろうか?
「朝食がまだだから、私は一旦家に帰るわ。また、学校でね」
雪歌が口を開く。確かに、そろそろ時間を気にしなければならない。
「じゃあな、雪歌。また学校で」
「ええ、一正君も、清美さんも、また後でね」

朝食を急いで終え、制服を着る。袖の先まで冷えた制服は、冬の寒さを封じ込めたかのようだった。一正は今日も清美、冬子と連れ立って学校へと向かった。
「冬子さん、今朝…」
当然ながら、朝の話題は今朝の事件である。一正はずっと黙ったままだった。
「イッセー、雪歌が何言ったか知らないけれど、気にしないほうが良いよ?」
冬子は、ポン、と一正の肩に手をかける。
「忘れているのなら、それが一番良いんだろうから…」
それは一体どういう意味だ?一正はそう尋ねようとしたが、冬子は軽くステップを踏む。
「さ、早くしないと遅刻するよ?」
そう言い残して走り始めた冬子を追って、一正と清美は学校を目指す。
『どういう意味だ?』そう問う事も忘れて。

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