第二章:2

「お早う御座います、一正さん」
祝が丁寧に頭を下げる。神社の娘であるという事が作用しているのかどうか、非常に礼儀正しい。一正も軽く会釈を返した。
「ああ、お早う、祝」
教室を見渡してみると、ありす以外は全員揃っている様だ。雪歌はというと、自分の席で読書中だった。
邪魔すると悪いな。そう思った一正は黙ったまま自席に座る。雪歌はどうやら一正に気づいていない様で、それほど読書に熱中しているのだろう。やはり邪魔をしなくて良かった。そう思う一正だった。
ぼんやりと数分すごす。ありすはまだ来ない。昨日の事もあり、何となく嫌な予感も漂い始めたその時。チャイムが鳴った。全国同じ音なのではないかという可能性を考慮してしまうほど、平凡なチャイムだ。
「ありすさん…」
呟き、心配そうに教室の扉を見る祝。その視線の先、扉が強烈な勢いでスライドした。
「やった、セーフ!」
塩野義ありす、その人である。しかし、その後ろには担任の教師が立っていた。
「塩野義、残念だったな。私はチャイムが鳴った時に教室の中に居ないと遅刻とする方針なんだ」
ぱこ、と間抜けな音。ありすの後頭部を出席簿がはたいた音である。
「ふにゃ!」
ありすが人外の言語を発し、恨めしそうに背後を振り返る。
「ほれ塩野義、さっさと席に着け。何でお前が遅刻する。お前は亀か。亀なのか」
「それはひどいですよ、黒木先生…」
ぶつぶつと不平を呟きながら着席するありす。一正はその姿を見ながら考えていた。どうやったら学校の正面に住んでいながら遅刻できるのかという事を。
「よし、全員席に着いたな。なら始めるぞ、教科書69頁を見ろ」
黒木先生が授業を始める。慌てて教科書とノートを用意し、筆箱からシャープペンシルを取り出す。
「清美、教科書読め」
光永姓は二人居るので、先生は兄妹を下の名前で呼んでいた。
「はい、えーと…」
立ち上がり音読を始める妹を眺めていた一正は、ふと隣の雪歌を見る。彼女はそっと瞼を閉ざしていた。眠っているのではない。その証に、読み終えた清美が座るとゆっくりその目を開いた。
「おい、一正?」
先生に呼ばれ、我に帰る。
「一正。お前も思春期だから宮下に見惚れるのは構わないがな、せめて休み時間にしてくれよ。今は私の授業中なんだから、私を見るように」
吹き出す四人。清美、祝、ありす、冬子だ。雪歌だけは笑わず、一正に妖しげな微笑を向けた。
「一正君、私に惚れたの?」
「こら、宮下。一正で遊ぶのも休み時間にしろ」
その時は私もぜひ混ぜてくれよ、と面白そうに言うと、黒木先生は授業を再開した。
何だよ、そりゃ。そう思いつつも、一正はノートをとる。
けれど、何となく、悪くない。ああ、悪くないさ。それはそれで幸せな、冬の一日。

「よし、今日はここまでだ。予習しておけよ。復習は余力があればやるように」
そうは言ったが、黒木先生はニヤニヤ笑いながら一正を見ている。教室を出る気は毛頭無い様に見える。どうやら、一正をからかう雪歌を見て楽しみたいご様子だ。案外大人気ない人だった。
「…で、一正君は私の事をどう思っているの?」
ふふ、と含み笑いをする雪歌。立ち込める深い朝霞の様に、雪歌の本質を隠してしまう妖しげな笑み。
「…嫌いでは、ない」
ひゅう、と口笛を吹く先生。ありすが拍手をし、祝は口元を両手で覆って頬を桜色に染め上げる。清美はにこやかに見守っていたが、冬子は何故かぶすっとしていた。
「ふむ、一正はそうなのか。なら、宮下はどうだ?」
生徒の色恋沙汰にまで首を突っ込む先生。結論から言うと、無類の面白がりらしい。
「私、ですか?」
訝しげに小首を傾げ、たずね返す雪歌。
「そう、宮下だ。嫌いじゃないなら好きという事だろう?返事してやれよ」
今度は雪歌がからかわれる番だった。冬子が慌ててフォローする。
「せ、先生!ほら、次の授業も始まりますし、ね?」
「もうそんな時間か…仕方ない、この辺にしといてやるよ」
舌打ちをしつつ教室から出て行く。冬子は一つ、大きなため息をついた。

「今日はこれで解散だ。気をつけて帰れよ」
黒木先生が終礼をし、六人は帰り支度を始める。
「で、宮下。お前…」
じろ、と冬子が睨む。その鋭い目つきは、明確な殺意を孕んでいた。
「…いや、何でもない。忘れろ」
正しい判断だ。黒木は苦笑すると、窓を開けて煙草を取り出し、火を着けた。
「…そうだな、風間。お前、少し残れ。大した用事じゃないから」
冬子を除く五人は彼女を残して教室を出、そこには冬子と黒木だけが残された。
「何ですか、先生?」
冬子は肩にかけた鞄を机の上に置くと、横顔を見せて煙草をふかす教師に尋ねた。
「風間、お前、一正を守ってやれよ。好きなんだろ?」
「先生、何が言いたいんですか?」
携帯灰皿に灰を落とし、黒木は冬子に向き直る。その眼には、暗い光が宿っていた。
「一つ、昔話をしようか」
遠い眼で紫煙を吐き出し、黒木は話し始める。沈んだ声に、冬子の背筋を冷たい物が走り抜けた。
「昔、一人の女が居てな。そいつは好きな男が居て、将来は結婚したいとさえ考えていた」
煙草を吸う。先端に灯った炎が、夕暮れの迫る教室に明滅した。
「でも、その男を好きな女はもう一人居た。しかも不幸な事にその三人は互いに仲が良かったんだ」
間をおく。冬子は、黒木の顔を見た。そこに在ったのは、汚れた悲しみなのだろうか。
「板ばさみ、片仮名で言うとジレンマって奴だな。結局その男はどちらも選べなくてな。最後には自殺しちまった。これで、昔話はお終いだ」
くく、と目を細めて渇いた笑いを漏らす。冬子はそんな黒木から目が離せなかった。
「すまないな、風間。下らない話に付き合わせた。気を付けて帰れよ、それと、一正をよろしくな」
「先生…」
心配そうな声。黒木は一人の女として、冬子を見た。それは年上の女性としての、威厳在る態度だった。
「私はどうも、お前たちに自分を投影しすぎているようだな」
にやりと笑って、煙を吐く。すっかり短くなった煙草を指で挟んで冬子を指す。
「ほら、早く帰れ、冬は日が落ちるのも早い」
携帯灰皿に吸殻をしまい、黒木は手を振って去ってゆく。冬子はそれをしばし見送っていたが、じきに踵を返した。二人の女は、それぞれの行くべき場所へと向かっていった。

校門を出ると、目の前に『塩野義食堂』が見える。若い声が聞こえるのは、同級生の物か。冬子は迷わず、その中に入った。
「あ、冬ちゃん」
ありすが満面の笑みで出迎える。
「冬子、何の用だったの?」
言いにくい事を直球で尋ねる雪歌。冬子は出来るだけ平常心を保ちつつ嘘を答えた。
「大した用事じゃなかった。ありす、うどん一杯くれる?」
ありすが応じ、うどんを作りに厨房に向かう。一正は丼を抱え、ずるずると下品な音を立てていた。
「イッセー、明後日は祝の所で祭りだけど、知ってる?」
話題を変えるため、冬子は和正に話しかけた。先の話は、雪歌にだけは知られるわけにはいかなかった。
「祝の所って、山の上の神社だよな?」
うどんを食べる手を休めて尋ねる一正。祭りに行くなんて久しぶりだ。一正は淡い期待を胸に抱く。
「祭りと言ってもほんの小さな、夜店も出ない祭りですよ?」
やんわりと言う祝。口ではそうは言っているものの、年に数回の祭りを前に気負っている様に見える。
「はい冬ちゃん、お待ちどうさま」
ありすが湯気を立てる丼を片手に戻ってきて、話に加わる。
「イッセー君はお祭り行くの?あ、あたしは当然行くよ」
「俺も行きたいな。清美はどうだ?」
傍らの妹に問う。清美は私もです、とだけ言うと雪歌を見た。
「…私も行かせて貰おうかしら。久しくお祭りなんて行ってないものね」
ふふ、と上品な笑い。言動の端々にお嬢様らしさが漂うが、決して嫌味ではない。その辺りも含め、雪歌はどこか出来すぎている、と冬子は思った。まるで、よく出来た人形のようだと。
雪歌が人形なのなら、人形遣いは…下らない、考えを止めよう。
「どうしたの、冬子。貴女、少し様子が変よ。風邪?」
雪歌が言い、冬子は我に帰る。皆の視線が集まっていた。
「ん、ちょっとね。帰ったら薬飲んどく」
何とかはぐらかす。まあ、これも青春だ。冬子はうどんを啜った。

「じゃ、また明日な」
「ええ、またね、皆」
雪歌と別れ、一正は清美、冬子の三人で歩き始める。
「ねえ、イッセー」
「何だ、冬子」
先を歩いていた一正が振り向く。
「私さ、イッセーが…」
「…俺?」
赤くなり、目をそらす。冬子は勇気を出そうとしたが…出来なかった。
「イッセーが、帰って来て、良かった」
一正は笑い、俺もそう思う、と言った。
これもまた、青春の一頁。

(第二章/続劇)

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