第三章/美しく儚い血の華が、可憐に咲いた

黒木つぐみは、月五万円の安アパートで目を覚ました。チリチリ五月蝿い目覚し時計を足で止める。立って窓を開け放ち、朝の光をその身に浴びる。刃の如く澄んだ、冷たい朝の風が吹き、一欠片の氷が屋根から落ちてアスファルトに砕かれた。嫌な、音がした。
「…(無言)」
女は朝焼けに燃える町を眺める。白い雪に埋もれた小さな小さなその町を。冬だというのに下着で寝ていた黒木は一つくしゃみをし、鼻を啜った後服を着替え始める。
その身を包むのは、教師らしからぬ装いだった。良く言えば開放的、悪く言えば下品とも言える。それでもしっかりとした雰囲気を醸し出しているのは、やはり黒木本人の資質によるものだろうか。
「朝、食うか…」
呟き、買い置きの食パンをポップアップ式のトースターに押し込む。インスタントコーヒーをマグカップに注いだ後、テレビの電源を入れた。優に80度は超える熱量を孕むコーヒーを喉に流し込むと、黒木は誰にとも無く呟いた。
「悪魔の様に黒く…地獄の様に熱く…接吻の様に甘く…」
ちょうどトースターから食パンが飛び出す。こんがりと狐色に焦がされたパンにバターを塗りたくると、黒木は味わおうともせずに無感情な瞳でそれを齧った。それを喰らい尽くした後、彼女は透明のメモ帳を繰る様に指先のパン粉を払い落とした。
「そろそろ、行くか」
そう言って立ち上がり、鞄を肩にかけ、背筋を伸ばして颯爽と歩き出す。女の向かうその先には、広い世界が堂々と待ち構えていた。

「お、嵯峨山。早いな、何かあったのか?」
校庭で祝を見つけ、黒木は教師らしく声をかける。
「お早う御座います、黒木先生。お気遣い、有難う御座います」
そうか、と言うと黒木はポケットから煙草の箱を取り出す。箱の隅から飛び出た煙草の端を口で咥えて引き抜く。気障な仕草だが、よく似合っていた。黒木はもう一方のポケットからジッポーライターを取り出すと、火を着けた。祝にも煙草を勧めるが、丁重に断られた。舌打ちを、一つ。
「嵯峨山。どうもお前は真面目すぎていけない。少し位は人生を楽しんでみたらどうだ?」
「私は十分楽しいですよ。皆が居て、私が居る。ただ、それだけで良いんです」
黒木は肺一杯に煙を吸い込むと、思い切り吐き出した。
「神は天に在りて、世は全て事も無し。嵯峨山は優しいな、良い女になる」
じゃあな、と言い残して職員室に向かう黒木。陽炎の様に漂う、紫煙を残して。
祝はそこに立ち尽くし、黒木の後姿を見ていた。そして、ゆっくりと唇を動かす。
「神は天に在りて…世は全て事も無し…」

同時刻。
冬子は一正を待っていた。『十六夜』前である。
「悪いな、いつも待ってもらって」
謝る一正に苦笑し、冬子は清美の浮かない表情に気付く。
「清美ちゃん、どうしたの?月からのアレ?」
一正に聞こえない様、小声で尋ねる。女の子には女の子だけの秘め事という物があるものだからだ。
「いえ、そうではなくて…雪歌さんについて…」
冬子は口を閉ざす。昨日の、黒木先生の言葉を思い出したからだ。雪歌と、冬子と、そして…
「知っての通り、お兄ちゃんは雪歌さんの…」
「清美ちゃん」
鋭い声に驚いて、冬子の顔を見る。彼女は目を伏せ、ゆっくりと首を左右に振った。
「言わない。それは、イッセー自身の事なんだから」
冬子の目には、心の底から恐怖すら呼び覚ます程の眼光が輝いている。
「おい、何かあったのか?」
不思議そうに尋ねる一正。冬子は別に、とだけ告げると、一正の手を引いて走り出す。
「おい、ちょっと、冬子!」
「ほらイッセー、急がないと怒られるよ!」
駆けて行く兄と少女を見て、清美は一瞬だけ寂しそうな瞳をすると、すぐにその後を追って走り始めた。

ついでにありすも迎えに行く。驚いた事に、彼女はまだ食事中だった。
「あ、冬ちゃんたち。グッモーニン♪」
ハムエッグをフォークでつつきながらにこやかに言う。早くも春は彼女の脳に訪れ、その中を花で満開に満たしてしまったらしい。罪な事である。
「ありす、あんたね…」
もぐもぐと口を動かしながら、首をかしげる。それに合わせ、さらりとその金髪が揺れた。
「…冬子、先行くか?」
「…そうしようか、イッセー」
脱力は苦笑いとともに襲い掛かる。ため息をつくと、彼らは塩野義家を後にした。
「さ、早く行くよ!」
一正を捨てて走る冬子。校庭を歩く雪歌の肩を叩き、冬子は一直線に教室へと走る。
「おい、冬子!」
一正も走り、つられて雪歌も走り…冬の空気は、微かに揺れる。空には、小鳥が歌っていた。

「塩野義!お前は本当にいい根性をしているな!」
ごすっ!
ありすの額にチョークが突き刺さり、嫌な音を立てて砕け散る。
「かひっ!?」
変な音を立てるありす。今日も遅刻したありすに、黒木先生の正義の鉄槌が振り下ろされたのだった。
「せ、先生!白目剥いて泡吹いてますよ!」
「放っておけ、一正。五分も寝かせておけば、治る」
ぶくぶくと変な泡を吹きながら倒れているありす。彼女も心配だったが、彼女をこうした原因が放っておけと言うのだから仕方がない。二の舞にはなりたくないし、一正は仕方なく無視する事にした。
「さて、授業を続けるぞ。さっきの所から…嵯峨山、読め」
「…はい」
祝が立ち上がり、音読を始めた。慣れているのだろうか、ありすを無視するのも板についている。
「…よし、そこまで。塩野義、その続きを読め」
無理だろ。さすがに、五人全員がそう思った。

数分後、本当に復活したありす。脅威の回復力である。
「先生、今日のは痛かったですよ」
「そうか、悪かったな」
まったく悪気が感じられない黒木先生。一正は一人、心に決めた。決してこの人にだけは逆らうまい、と。
「一正。どうした、私の顔なんか見て。さては、やっとこの黒木つぐみの魅力に気付いて宮下を見限ったのか?」
にやにや。黒木先生が授業中にもかかわらず、その豊かな胸を強調してみせる。色気たっぷり。うろたえる一正を満足げに見てから、黒木は彼の額を指先で弾いた。
「ま、お前がもう少し大人になったら考えてやっても良いかな」
くくく、と悪戯っぽい笑みを漏らし、黒木先生は授業を再開する。
一正は大人の女性特有の甘い匂いにどぎまぎしつつも、一応真面目に授業を受けた。気の合う仲間たちとの、世界から切り取られた様に平穏な生活。
けれど。
何故か一正は、この教室に多少の違和感を覚えていた。教室をそっと見渡す。生徒は、六人。セツカ、フユコ、ハフリ、アリス、キヨミ、カズマサ。何も変な事は無い。しかし、それでも確かに何かが違う。一正はその答えを求める様に雪歌を見つめた。雪歌は何も語らず、静かに座っている。
ゆっくりと――時が――過ぎる。
宮下雪歌。高校生、女性。幼馴染。性格は冷静で知的、茶目っ気もある。体型はモデル級…一正は雪歌について考えをまとめてみた。好きな女だというのに、大して知らないものだ。幼馴染なのだから、もう少し位知っていても変ではないのに…
五年間の空白が、記憶を閉ざしている様だ。思い出そうとすると―――
ずきり。激痛。頭の奥底から響き渡る崩壊のビート。一正の意識が、白くなる。
カズ×サ。ミ××××カ×マ×。KAZU…M…ASA?
喪失。埋葬された―――カ××サ。それは誰…情報不足――不明。
俺はカズ××か?KAZUMASA。自己同一性。それは、カズマサがカズマサである理由。記憶不鮮明、カズマサ、及びセツカ。キヨミ、及びカズマサ。
左手傷跡勾玉雪歌五年前流血。紅。一面の紅。
地に血が溜まる…?地が廻る。血が廻る。
ミ××××カ×マ×。傷跡疼痛心痛兄妹白雪歌清美夢現。
俺の妹。俺の忌もうと。記憶が開放され閉塞し…

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