第三章:2

床が、近い。重力の戒めに縛られた俺は、沈む。ゆっくりと。じっくりと。

一正君!?
イッセー!?
お兄ちゃん!?
一正さん!?
イッセー君!?
一正!
皆の声が聞こえる。何故俺を呼ぶ?疲れた、眠らせてくれ。
一正君、起きて、ねえ!
イッセー、しっかりして!
雪歌?冬子?何で泣き声なんだよ。理由がわからない…
一正!おい!目を開けろ!
先生も、泣かないで下さいよ。俺、眠りたいんですよ…
ああ、白くなってきた…
ぶつん、と。何かが斬れる、音がした。
「一正君、死なないで!」
涙を流しながら、雪歌が叫ぶ。その頬を、冬子が平手で強く打った。頬を押さえて雪歌が一瞬静止する。
「…っ!」
睨む雪歌。息を呑む皆の中で、冬子は言った。
「死ぬなんて言わないでよ!そりゃ、雪歌はイッセーが…」
言い終えぬ内に、冬子の横顔を痛みが襲った。雪歌が握り締めた拳が、冬子を打った。
「黙れ、黙れ、黙れぇっ!」
両手を硬く握り締め、雪歌は目を瞑って怒鳴った。肩で息をしつつ、歯を喰いしばる。
「冬子に私の何が分かる!私の、私の…」
「…二人とも、少し黙れ」
空気を切り裂く様な、黒木の声。雪歌と冬子は、その凍てついた眼光に恐怖した。
「騒ぐのなら一正が起きるか死ぬかしてからにしろ。五月蝿いんだよ、お前達は」
底冷えのする様な声。氷の刃にも似た瞳。黒木つぐみは、ゆっくりと言った。
「宮下。風間。お前達は、私の可愛い生徒なんだ。当然、こいつ達も」
ぐるり、と首を回す。祝、ありす、清美、そして一正。
「頼むから。頼むから、争わないでくれ。私を哀しませないでくれ」
伏し目がちに言う黒木。唇を噛み、その表情を曇らせる。雪歌も、冬子も、それを見つめていた。
「ほら、誰でも良いから。とっとと救急車呼んで来い」
黒木つぐみは、壊れかけた微笑を漏らした。

見上げれば、そこに在るのは見知らぬ天井。白い、清潔そうな、高い天井。
「おう、起きたか」
黒木先生の声がした。首だけを動かし、そちらを見る。
「先に言うぞ、ここは病院だ。お前は私の授業中に倒れて、ここに運ばれた。分かるか?」
一息に言葉を連ね、教え子の顔を覗き見る黒木先生。
「はい、一応分かります」
一正は答え、体を起こそうともがく。しかし、それは黒木によって妨害された。
「まだ起き上がるな。病人は、医者が来るまで寝ているべきだ」
ナースコールで医者を呼ぶと、黒木はポケットから携帯電話を取り出した。鴉の様に真黒な、渋い色の携帯電話だ。
「…そうだな、病院内は携帯電話の電源は切っておくんだったな」
呟き、黒木先生は電話をかけて来ると言って廊下に出る。残された一正は唯、見知らぬ天井を見続けていた。

かつ…ん。かつ…ん。
冷えたリノリウムの廊下に、黒木のパンプスが澄んだ音を奏でる。女は、過去を見ていた。
(ねえ、××××ってば…)
(何だよ、つぐみ)
(私さ、好きな人が出来たんだ)
「…くそっ!」
がぁん、と壁に拳を打ち付ける。幾度も、幾度も。
「くそっ、くそっ、くそっ…」
指の皮は弾け、真紅の血が壁を彩る。事によると、骨も砕けているかも知れない。
「くそぉっ…」
肘を折り、頭を壁に押し付ける。瞳には、大粒の涙が光る。黒木つぐみは、責めていた。雪歌や冬子、まして一正などではない。彼女は唯、自分を責めていた。
同じ過ちは繰り返さない。それが、彼女の想い。
挫けないで戦うと決めた。それが、彼女の誓い。
しかし、何も出来なかったではないか。
「うう…うくう…」
黒木つぐみは、壁を殴り続けた。そこに、自分を写すかのように。

一正は、何も知らずに帰路につく。

「お兄ちゃん、大丈夫だった?」
「ああ、心配かけたな、清美。悪かった」
心配そうな顔で出迎える妹と適当な会話をしてから、一正は布団に倒れる。
頭がぼんやりする、今日はもう寝よう…思う間も無く、一正は夜に堕してゆく。
その日、彼は夢を見なかった。

ほぼ同時刻。
宮下雪歌は、朱い勾玉を見つめる。
「…もう少しだよ、一正君…」
鈍い輝きを放つそれは、あたかも紅玉の様に彼女の顔を歪めて映す。雪歌は、勾玉を愛しそうに、それでいて憎らしげに見る。
えーんえんえんえんえん。
えーんえんえんえんえん。
子供の泣き声が聞こえる。雪歌はそっと、後ろを振り返った。泣き声の主を探し、周囲を隈なく見回す。そして、部屋の角に小さな子供がいた。座り込んで、涙を流している。
それは、宮下雪歌の幼き日の姿。故に、それが現実である筈が無い。
「…っ!」
思わず勾玉を投げつける。霞む幻、勾玉は床に転がった。
えーんえんえんえんえん。
えーんえんえんえんえん。
嘲笑うかの様に響く幻聴に、雪歌は耳を塞ぐ。
「消えて、消えてよぉっ!」
何時しか、雪歌も泣いていた。耳を塞げど、目を瞑れど、それでも幻覚は彼女を苦しめる。
「うわあ…うう…」
雪歌の泣き声が響く。
切ない泣き声が響く。
幻聴は、消えない。
「うわああああああああっ!!!」
大声で叫び、手当たり次第に物を投げる。一正同様、雪歌も壊れかけているのだろう。雪歌は子供の様に泣きじゃくり、幻聴と戦い続けた。

宮下雪歌、十六歳。
体は、氷で出来ている。
血潮は止まり、
想いは澄んで。
限り無く透明な愛と。
限り無く冷淡な憎悪と。
だから、きっと。
体は、氷で出来ていた。
そして、恐らくそれ故に。
心は、業火で出来ていた。

「はぁ…はあぁ…」
息を荒くし、床に倒れる雪歌。朱の勾玉を握り締め、悲しみと怒りに満ちた瞳で虚空を見据える。
「もう、少し…もう少し、なんだ…」
魘される様に、自分に言い聞かせる様に呟き、拳を硬く握る。服はびっしょりと汗で濡れ、彼女の肌にじっとりと絡み付いている。雪歌はそれを脱ぎ捨て、下着だけを身に着けた肢体を露わにする。標準以上の美しさを具現化させた、均整の取れた肉体。程好く付いた脂肪が体に適度な丸みを帯びさせ、彼女が内に秘めた狂気を隠しているかの様でもある。鋭い双眸、その奥にひどく濁った感情が漂っていた。
雪歌は下着をも脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿になった。
女として肉体が成長し始めてより、幾年月。
それを可能な限り彼の好みに合わせて美しく育て、更に幾年月。
「長かった…」
ぽつり、と呟き声。言葉と言うよりは、自然に漏れ出した感情の発露といった所だろう。
「本当に長かったよ、一正君…カズマサ…」
雪歌はカーテンを開け、月を見上げる。銀色の月はナイフの様に闇を斬り裂き、何も語らず冷たく輝いている。
冬の空、月が浮かぶ。
「…(無言)」

宮下雪歌は、カーテンを閉める。下着を新しい物に代え、パジャマに着替える。
「…お休みなさい」
部屋の照明を消し、ベッドに潜り込む。彼女はゆっくりと、まどろみの中へと沈んで行く。己の狂気に侵され、心が壊れかけたとしても。
彼女は、それでも耐えていた。
宮下雪歌、十六歳。
体は、氷で出来ている。

(第三章/続劇)

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