第四章/いのちの歌

朝の来ない夜は無い。明日の来ない今日は無い。春の来ない冬は無い。死の来ない生は無い。
嵯峨山祝は、目を覚ます。
学校の裏手、山の上にある神社。そこが、祝の家だった。祝はぼんやりとした頭をはっきりさせる。今日は日曜日で学校は休み、そして、祭りの日でもある。
「あ、境内の落ち葉、片付けておかないと…」
ひとりごち、千早と袴に着替えて表へ出る。社務所の壁に立てかけていた竹箒を手にとって、雪の積もった境内を見た。一つ一つ、確実に落ち葉を掃く。秋に比べて量こそ少ないものの、雪に塗れているので労力としては大差ない。もっとも、祝はそのような事など大して苦にもしていないので無関係ではあるが。
「…ふう」
境内を掃き終え、一息つく。澄み渡る大空を見上げ、祝は昔の事を思い出していた。
数年前に父が他界して後、ずっと母と二人で神社を守ってきた。その間、色々あったけれど。雪歌、冬子、ありす。皆が居てくれたから、今の嵯峨山祝がある。心から、そう思った。あの時、絶望の闇に飲み込まれそうになっていた自分を、皆が救ってくれたから。
父に、さようなら。
友に、ありがとう。
そして全ての生命に、おめでとう。
生まれた事、生きている事。それらの奇跡に、心からの祝福を。
神は天に在りて、世は全て事も無し。
昨日、黒木先生に教えられた言葉。深い意味など、分からないけれど。けれど、きっと。
何事も無く世界が廻るのならば。それはきっと、良い事だから。生きてさえ居れば、それだけで素敵な事だと思えるから。生まれるという事が、死に至る病と言う呪であっても。それでもなお、生きていたい。皆と一緒に、この一日を大事に、無事に生きたい。

ほら、今日もまた、新しい一日が始まるから。

境内の掃除を終えた後、母の作った朝食をとる。
「祝、今日は頑張ってね。けれど、無理はしないでいいのよ」
優しい声をかける母に、最上級の微笑を返した。
「大丈夫ですよ、お母さん。今まで、私が無理をしてきた様に見えますか?」
「そう、ならいいわ。ほら、早く食べないと冷めてしまうわよ?」
「はい、お母さん」
祝は吸い物の椀を持ち上げ、そっと啜った。いつも自分を心配してくれる、母に感謝。少しだけ温くなった吸い物は、優しく甘い愛の味がした。

石段の雪掻きも終え、鳥居の根元を磨く。ゆっくりと、丁寧に。
「毎度、風間花店です!」
冬子の声がした。本殿を飾るための花を持って来てくれたのだ。
「ありがとうございます、冬子さん。お代は前払いでしたよね?」
確認を求めると、冬子は伝票を確認した後ににっこり笑ってそれに応じた。
「えっと…ご注文は…白百合10に椿が2…」
一つずつ花を確認する。過不足無く、全て揃っていた。
「本当にありがとうございます、わざわざ上まで運んでいただいて」
「別に構わないよ、祝。冬だし、花買う人も少ないしね」
あはは、と明るく笑う冬子。冗談めかして言ってはいるが、家計が苦しいであろう事は容易に見て取れる。
「それに、祝の所は雪歌と一緒でお得意さまだもの。サービスサービス」
「雪歌さんも?」
意外な名前に、驚きを禁じえない。神社である嵯峨山家が花屋の得意先である事は普通の事だ。しかし、いわゆる町の金持ちでしかない宮下家が、そうそう花を必要とするのだろうか?雪歌の趣味がガーデニングだと言うのならば分からないでもない。しかし、彼女の趣味は読書だった筈。自分とは無関係だ、と頭では理解しているのだが、生まれた疑問は止まる事を知らない。祝は、ついに好奇心に負けた。
「雪歌さんは、何のために?」
「理由は知らないんだけどね。でも、毎月この頃に買いに来るのよ。多分、今月は今日か明日くらいだと思うけど」
気にはなるけど、あいつにもプライバシーだってあるしね、と冬子は笑う。
「あ、もうお昼か。祝、私もう帰るね。夕方のお祭りには絶対来るから」
空腹を感じ腕時計を見た冬子は、祝と別れた。祝はそれを見送ると、彼女も昼食にする事にした。

神社の階段を駆け下り、冬子は町を行く。
「雪歌が花を買う理由、か…考えた事も無かったな」
幼馴染とは言え、秘密主義者に近い雪歌の事はあまりに知らなかった。その点、おっとりした祝や何も考えていないありすは分かりやすいのだが。一正と清美は…昔の事はとにかく、時の断絶は如何ともしがたい壁となっていた。
最後の一人…特に、考えるまでも無いだろう。
「あ、冬ちゃん!」
「ありす…」
ぶんぶん、と千切れそうな位に手を振るありす。『塩野義食堂』のエプロンを着けていた。
「ありす、店の手伝い?」
「うん、冬ちゃんもでしょ?さっき祝の所にお花持って行くの見たよ」
ぼんやりしている様で、意外に鋭い。いつもニコニコ笑っているように見えて、そうではない。その青い瞳の奥深くには、全て受け止める様な深さがあった。
「…ねえ、ありす。雪歌が毎月この頃になると花を買っていくんだけど…何か心当たりとか、無い?」
ダメモトで尋ねる。ありすはきょとんとしたが、すぐに一つの答えを出した。
「月命日、じゃないかな」
「月命日…?まさか、雪歌の奴!」
駆け出す冬子。ありすはバイバイ、とだけ言うと、店の中へと戻って行った。

冬子は思い出す。
故意に封じていた記憶を。思い出すべきでは無い記憶を。
『風間、お前、一正を守ってやれよ。好きなんだろ?』
先生の言葉に隠された、本当の警告を。
知らず、冬子は呟いていた。
「雪歌、貴女にイッセーは殺させない!」
一正は、雪歌の事が好きなのかも知れない。
けれど、雪歌は違う。少なくとも、この予想が正しいのならば。
雪歌が一正に近づいた理由。それは、決して愛情なんかでは無い。
一正に、カズマサの仇を果たすため。

宮下和政。
宮下雪歌の、双子の兄。
冬子、雪歌、清美、祝、ありす、そして二人のカズマサ。
光永一正。宮下和政。本当の兄弟の様に、あの二人は仲がよかった。
いつも七人で遊んでいた。あの頃は、雪歌だってよく笑っていた。あの、夏の日までは。

日差しは燦然と照り付け、蝉の声は五月蝿い。そんな夏の午後の事だった。
その日、子供たちは川で遊ぶ事にした。夏でも川の水は冷たいと知っていたから。川の流れは案外急ではあるのだが、それを恐れる子供たちではなかった。川に行けば飛び石、水きり、無邪気な水の掛け合い。遊びの可能性は無限大で、恐怖など欠片も感じない。
その刹那、世界が反転した。
一正が川の深みにはまり、流されたのだ。彼は必死で近くにあった岩を掴もうと手を伸ばす。しかし、鋭く尖ったその岩は彼の左手の甲に深い傷をつけただけだった。
一正君!
イッセー!
お兄ちゃん!
一正さん!
イッセー君!
カズマサ!
叫ぶ、六人の子供たち。急な流れは少年を押し流し、その命を冷たい死の深遠へと確実に誘う。
和政が、飛び込んだ。
夏でも冷たい川の水は、非情にも二人のカズマサの体温を奪い尽くす。けれど、少年は怯まない。和政は一正を抱え、岸を目指した。しかし、流れは急すぎて、少年の力は及ばない。和政は、近くにあった岩に、水を飲みすぎて意識を失っている一正の体を押し上げた。
そして、岩にはそれ以上の空間は存在していない。
何かを成し遂げた、満足げな少年の笑顔。
それが冬子の見た、最後の生きた和政だった。
水に呑まれ、彼の体は見えなくなって…

和政の体は下流で発見された。流される間に岩に当たったのか、その死体は原形を留めていなかったと聞く。

その日を境に、雪歌は明るく笑わなくなった。
一正はショックから和政に関する全ての記憶を失った。
そして、光永家は逃げる様にこの町を去った。
それで、お終い。

そう出来ていれば、どれほど幸せだっただろうか。

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