第五章/ただ在りのままで

フロントでロッカーキーを受け取り、全員で脱衣所に向かう。女子脱衣所の中にまでついて来かけた一正に対し、冬子がバックドロップとシャイニングウィザード、止めに十六文キックをぶちかます一幕があったものの、ここまでは概ね平和なものだった。
冬子はタートルネックのセーターを脱ぎ、脱衣籠に押し込んだ。浴場からの熱気はあるものの、冬は冬。少し肌寒さを感じる。手早くスカートとオーバーニーソックスを脱ぎ、下着だけの姿になった。
「わー、やっぱり雪ちゃんの胸大きいねー」
ありすの声に振り向けば、雪歌の下着姿が目に飛び込んできた。
はい、負けましたよ。
「こら塩野義、そんな事を言うものじゃない。一正が隣で聞き耳立てていたらどうするんだ。奴が興奮して宮下を襲ったら、お前責任取れるのか?」
冗談のような事を真面目な顔で口にする黒木先生。皆がその冗談に朗らかに笑う、その時。壁の向こうから、声がした。
『先生、失礼ですね。俺がそんな事する奴に見えますか?』
さすがの黒木も、開いた口が塞がらない。酸欠の金魚の様に口をパクパクさせ、やっとの事で言葉をひねり出した。
「あー、その、何だ。そんな事する奴に見えはしないが…聞こえは、するぞ?」

後で殴る、と心に決め、冬子は脱衣所を見渡した。
黒木は文字通り黒い下着で、そのグラマラスな肢体を包んでいた。さすが大人だ、と思う。後何年かしたら自分も先生の様な大人の身体に慣れるのだろうか。何故か、不安がよぎった。
次、雪歌。先程もありすが言っていたが、雪歌は本当にスタイルが良い。この際、もう無視する。
その次、ありす。英国の血は反則だろうと思いつつも、負けは負けだ。あの底無しの能天気、何も考えてないから脳に行く分の栄養が全部胸に行って、あんなふくれ饅頭みたいになるんだろう。
その点、清美と祝は良い人だ。私と同じか、清美に到っては私以下だ。妙なシンパシーを感じる。
「あれ、冬ちゃん脱がないの?」
突然のありすの声。反応する間も無く、ブラジャーがするりと抜き取られた。
「こ、こら!ありす、返しなさい!怒るわよ!?」
ありすは事もあろうか、冬ちゃんって意外に貧乳、とのたもうた。
『え、そうなの?何カップだよ、ありす』
「イッセー、後で絶対に殴る!」

「ったく、イッセーの奴!」
浴場に入ってもまだぶつぶつと怒りの言葉を紡ぐ冬子に対し、黒木は若干大人な対応を見せていた。
「まあまあ。思春期の男なんだし、あれ位の方が健全だろう。逆に全く興味を示されない方が女としては傷付くぞ」
『そう、その通りですよ。さすが先生、伊達に年食ってませんね』
どうやらこの風呂場、相当壁が薄いようである。一瞬の沈黙の後、黒木の米神に青筋が浮かんでいた。
「おい、一正。後で覚えていろ、無傷で明日の朝日が拝めるとは思うなよ?」
底冷えのする声で脅しをかける黒木。ありすが祝を盾にしようと、彼女の後ろに隠れた。
「全く、一正め。言って良い事と悪い事の区別もつかんのか」
「申し訳ありません、先生…」
ばつが悪そうに頭を垂れる清美。出来の悪い兄を持った妹は大変なのである。
溜息を一つ付き、冬子は髪を洗う事にした。浴場備え付けのリンスインシャンプーに手を伸ばす。浴場の熱気で温もっているのか、生暖かい白濁色の液体を手に取った。適当に泡立て、ショートの髪に擦り付ける。目を瞑り、両手で頭皮を擦った。何時もの事なのだが、シャンプー中は背後に気配を感じる。誰にでもある経験だろう。ただ、それが何時もと違ったのは。本当に、背後に人が居た事だった。浴場の鏡がその姿を映す。
「冬子、背中流してあげる」
そこに立っていたのは、友人にして恋敵、そしてまた別の意味でも最大の『敵』である少女だった。
「雪…歌…?」
「あら、迷惑だった?それなら、ごめんね」
儚げな微笑だけを残し、雪歌は冬子の後ろから立ち去ろうとした。冬子は瞬時に思考を巡らせる。これは、雪歌に真意を問い質すチャンスではないか?そう考えれば後は早かった。
「待って、雪歌。その…お願い、できる?」
「…ええ」

石鹸を泡立てたタオルを背中に滑らせる。絶妙な力加減が心地良い。
「ねえ、雪歌。憶測で物言って悪いんだけど…思い切った事とか、しないでよ」
背中越しに雪歌を見ると、彼女は面白そうに笑っていた。けれど、冬子の背に当てた手は小刻みに震えている。
「思い切った事って…例えば、一正君を殺す、とか?」
他の誰にも聞こえない様に、けれどそれでいて冬子の耳には確実に届く様に。雪歌の囁きを聞いて、冬子は自分の心臓が早鐘の様になるのを感じた。
くすり、と雪歌はさも可笑しそうに笑う。再び冬子の背を洗いながら、彼女は話し始めた。
「冬子、やっぱりそう思っていたのね。今日は何だか様子が変だと思っていたのよ」
雪歌の手に、心なしか力が篭る。
「けれど、ご期待には添えないわね。私、一正君を殺すなんて、そんなつまらない事はしないもの。だって、そうでしょう?一正君を殺しても、和政が、兄さんが帰ってくるわけじゃない」
寂しそうな声になる。生前の和政を思い出し、冬子もちくりと胸が痛んだ。
「だから、私は一正君を殺したりなんてしない。彼には生き続けて、できれば…一生、私だけを愛して欲しい。都合の良い話だけれど、和政の事は忘れて至って構わないと思う」
それでも、思い出して貰いたいと言うのが本音ね、と雪歌は言った。
「雪歌、そんな風に考えてたなんて…」
冬子は自分を恥じていた。いくら動機が有るからと言っても、友人を疑ってしまった自分を。完全に、自分の負けだ。学力や体力の面では知らない。けれど、女としても、人としても。宮下雪歌には、風間冬子は勝つ事が出来ない。
「まあ、最大の理由は…一正君を殺した位では、この私の恨みは晴れないから、かしらね。私、恨むとしたら徹底的に恨み通すタイプだから。さ、流すわよ」
お得意のブラックジョーク。冬子は何か言おうとしたが、勢いよく背中にかけられた湯にその機会を奪われた。
「じゃあ私、露天風呂の方に行くから。冬子はどうする?」
くい、と露天風呂へ続くガラス戸を指す雪歌。断る理由も無く、冬子も一緒に行く事にした。

ガラス戸をくぐると、そこは今や戦場だった。
一体何処から調達してきたのか、湯船では黒木が熱燗をちびちびやっている。そしてその横では、ありすが御相伴に与って頬を桜色に染めていた。
「あー、雪ちゃんと冬ちゃんだー。どうしたの、頭が二つあるよー?」
えへらえへらと笑うありす。何だかもう、完全な酔っ払いになっている。
「先生、ありすに何呑ませたんですか!」
黒木を叱責しながらも、冬子は露天風呂の中へ入る。さすがにこの季節、露天風呂の脇に立っていては寒いのだ。
「えー、何って。これだが、何か?」
ひょい、とお猪口を持ち上げて美味そうに中身を啜る。
「くー、五臓六腑に染み渡るねぇ。やはり日本酒は鬼殺しだな」
もう何も言う気が無くなった冬子であった。

『くー、五臓六腑に染み渡るねぇ。やはり日本酒は鬼殺しだな』
露天風呂特有の竹で出来た壁越しに、黒木先生の声が聞こえる。一正も露店風呂の方へ来ていたのだ。
さて、一正は男だ。隣に女性の入っている露天風呂で、男の成すべき事は一つ。そう、それは非常にシンプルな回答で。あまりにもシンプルであるが故に、その実行には多大な困難が待ち受ける。それは、覗きである。
「何処かに適当な節穴でもないかねぇ…」
くっくっく、と邪悪な獣は嗤う。腰にタオルを巻き、準備は完了した。今度黒木に見つかっては命が無いだろうから、事は慎重を要する。心してかからねば、明日は無い。とりあえず壁にべったりと張付いた。蟹歩きで節穴を探す。
『ほら、冬ちゃんも呑もうよ。美味しいよー』
『そうだな、風間も呑め。呑まんと…そこの壁を、爆破するぞ』
物騒な事を言いやがる。一体何の権限があってそのような事を言うのか。等と思いつつ、一正は節穴探しを続行。
『何言ってるんですか、先生!ほら、雪歌も何か言いなさい!』
『そうですね、先生。壁を爆破なんてしたら、一正君が覗きに来ますよ』
甘い、雪歌。爆破されないでも一正は覗く。しかし人様の迷惑とか器物破損とかを考えないのだろうか?なかなか肝が据わっていらっしゃる様だ。それとも、単に感覚が世間とずれているだけだろうか?一応、お嬢様である事だし。
『雪歌も何言ってるの、酔ってるの!?とにかく、私は呑みませんからね先生!未成年ですし!』
『先生の言う事を聞かないとは、生意気な生徒だな…そういう奴は、こうだ!』
『きゃあっ!何するんですか!』
『かかれ、塩野義!』
『あい、まむ!』
『ちょっと、嫌、止めて!引っ張らないで!』
突然の目くるめくピンク色の空間(少なくとも一正の頭の中ではそうなっていた)が展開される。どす黒い劣情と妄想のオーラが一正を包み込んだ。DNAが騒ぎ立てる。女湯を覗けと、血が滾る。簡単に言うと、目の色が変わった。
壁が悪いのだ。この壁が、ここに在るのが悪いのだ。だって、邪魔だし。
「もう遠慮なんてするか、乗り越えてでも覗いてやる!」
一人呟き、竹の節に手をかけた。水滴や汗で滑るのだが、そこは気合でカバーする。
貴様は男か?イエス、サー!
貴様はチキンか!ノォ、サー!
貴様には夢があるか?イエス、サー!
よし、行くぞ!サンキュー、サー!
そして、一正は男から一匹の雄に堕した。
「ラヴハンター、GO!」
一正は小さく叫ぶ。脳から限界までドバドバ漏れ出したアドレナリンか何かの働きによって、一正の精神は異常なほどに昂揚し、体力は在り得ないランクにまで強化されている。脳内麻薬ってそんな物だ。
作戦など無い。正面突破だ。攻めて攻めて攻めまくる。
この後どうなろうが、そんな事は知った事ではない。真の漢は後の事など考えないものだし、死を恐れて覗きが出来ようか、いや、出来ない(反語表現)。一正は心の中で雄叫びをあげ、壁を乗り越えようとし、そして見事に失敗した。
壁が、倒れたのである。

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