第五章:2

「イッ…セー…」
目を閉じ、握り拳をわなわなと震わせながら仁王立つ冬子。一正は壁と共に倒れ、その前に伏していた。彼はゆっくりと首を動かし、その視界に女湯の全景を捉える。祝と清美が居ないのは悲しい。
だがしかし、こんな機会は二度と来ないだろうし、拳に汗して語らせて貰おう。

まず、目の前に立っている冬子。
確かに雪歌や黒木先生と比べれば貧しい身体だと言えよう。しかし、それは雪歌たちが巨乳のカテゴリだからだ。全体的に引き締まった身体、それでいて出る所はしっかり出ているトランジスタグラマー。無駄な脂肪は全く無く、女性的なボディラインを形成するのみに止まっている。だが、その脂肪の下に在るのは女豹の様な美。しなやかな筋肉は彼女の肢体に健康的な色気を与えていた。
次、風呂の縁に腰掛けているありす。
さすがは英国の血、巨乳と言っても全く問題は無いだろう。いわゆるロケットおっぱいと言う奴か、胸は綺麗な形をしている。今は顔を真っ赤にしてへべれけになっているが、仮に妖艶な笑みで迫れば大概の男は陥落するだろう。この際ありすが天然ボケのカテゴリである事は無視しておく。しかしまぁ、色っぽいと言えば色っぽい。安産型の尻が風呂縁の石によってつぶされ、絶妙に煽情的だ。いかん、生唾が。
次、一正から見て風呂の奥に浸かっている黒木先生。
右手にお猪口を持ち、あいた左手は風呂の縁に掛けていた。こんな所に気が付く自分もどうかとは思うが、腋毛もしっかり処理している。そして目を引くのはやはりその胸。実際に生で見てみると凄い。既に巨乳の域を逸脱し、爆乳とでも言うべきその大きさ。一正は人類の半数を占める単細胞生物、つまり男性の一員であり、しかも思春期。無条件に興奮させられる。非常に残念な事に風呂の湯は色が付いていて見えにくいが、腰の括れがもう何ともはや美しい。
最後、風呂の真ん中で立ち尽くす雪歌。
これまでも何度か述べたとおり、彼女はモデル級のスタイルだ。最早芸術の域ですらある。上気した顔、火照った肌、その全てが美しい。思わずしがみ付きたくなる肢体を持つ、美の極み。そこに、言葉など必要無いのかも知れない。そう、美しい。それだけで十分ではないか。少なくとも、一正はそう思った。けれどそれと同時に思いっきり子供産ませたいとも考えていた俺は死ぬべきだ。死ね、死んじゃえ。そんな事を思いながらも雪歌の身体が織り成す曲線美を目の当たりにし、彼は自分の心臓が高鳴るのを感じていた。

以上、描写終了。
以下、殺戮開始。

「一正…お前、お約束にも限度という物があるだろう…?」
酔ってはいるが、思考の中枢まではアルコールが回っていないらしい。黒木は本気の目である。彼女は湯船に漣を立てながら、ゆらりと立ち上がった。色々見えて、一瞬喜ぶ俗物な一正。しかし、すぐに命の危機を感じ取った。
黒木は頭に乗せていた濡れタオルを、さながら剣の様に構えたのである。
「一正、さっきも言ったよな?無傷では帰さん、と」
その姿はまさしく鬼神。仏敵を滅ぼす不動明王の如く、怒りの業火を滾らせる。そのあまりの恐ろしさに、冬子達は身体を隠す事も忘れてがたがた震えているだけだった。
しかし、彼女達はまだましだ。一正は、その恐怖の矢面に立たされているのだから。
「一正…」
名を呼ばれ、一正の心臓が跳ねる。怖い。ものすごく、怖い。彼は今までの十七年の人生で、これほど恐ろしい経験をした事は無かった。
「何か、最期に言い残す事はあるか?」
タオルで出来た剣を片手に、黒木は正しい怒りに身を焦がす。そして一歩、一正に迫った。
「ああ、一正。そんなに怯えた顔をするな。私も悲しいんだぞ?何せ、大事な、ああ、本当に大事な教え子が―――」
す、と剣を大上段に構える。タオルを持たない左手で顔を覆って、彼女はゆっくり左右に頭を振った。しかし、まあ。全体的に楽しんでいる様に見えるのも、あながち気のせいではないだろう。
「大事な、掛け替えの無い教え子が、私の一正が、天に召されてしまうのだからな」
誰がお前の一正だ。等と突っ込む暇は、勿論無い。鋭い突きと神速の斬りが襲って来たからだ。間一髪、黒木の袈裟斬りを回避する。
「一正、私の悲しみを引き伸ばさないでくれよ。お前は私に、永久に悲しみ続けろとでも言うのか?」
黒木が怨嗟の声を上げる。瞬間、脇腹にチリリと嫌な予感が集中した。手近にあった木の桶を引き寄せ、すんでの所で防御に成功。だが黒木の攻撃は鋭く、速く、そして激しかった。それは全ての盾を穿ち抜く、最強の矛にも似て。薙ぎ払う様に振るわれたタオルは、一正の盾を打ち砕く。
「お、俺達の教師は化け物か!?」
黒木の攻撃を受け止めた衝撃だけで、一正は尻餅を着いて倒れた。
「ではさらばだ、一正。次は良い子に産まれて来るんだぞ」
目の前に立ちはだかり、爛々とその目を輝かせる黒木を見て、一正は思った。
終わったな、これは。短い人生だったな。さよなら、皆。一正は目を瞑り、全ての運命を受け入れようとした。
しかし、最期の時はなかなか来ない。
「…?」
そっと目を開ける。するとそこには、ぐったり倒れた黒木の姿があった。頭には大きな瘤。
「一正君、大丈夫?」
雪歌が聖母の様な優しさで問い掛ける。手には一正が使ったのとは別の桶。どうやら彼女が黒木の頭部を強打して助けてくれたらしい。一正はその行動力に感謝と恐怖を感じつつ答えた。
「ああ、大丈夫。助けてくれて本当にありがとう、雪歌」
「そう、なら…」
にっこりと笑い、一正の倒した壁の方を指差す雪歌。
「早めに、出て行ってね?」
「…はい」

全員風呂から上がり、ロビー前に集合。黒木は昏倒からすぐ回復し、今はマッサージチェアに座ってご満悦の様子だ。
「ねぇねぇ先生、フルーツ牛乳奢ってくださいよー」
くいくい、と黒木先生の袖を引くありす。酔いの醒め易い体質なのか、顔色も普通だった。
「仕方ないな、奢ってやろう。おい、お前達もフルーツ牛乳でいいか?コーヒー牛乳もあるな、コーヒー牛乳のほうが言い奴は手を上げろ」
生徒たちを見回す黒木。何だかんだで、面倒見の良い姉貴分であった。
「私はコーヒー牛乳がいいです」
冬子が言い、清美がそれに賛同して、二人は手を挙げた。
「なら、風間と清美がコーヒー牛乳で他はフルーツ牛乳だな。後から変えろと言っても知らんぞ」
黒木はカウンターに向かい、コーヒー牛乳二つ、フルーツ牛乳を四つ抱えて戻ってきた。カチャカチャと、ビンのぶつかる軽快な音。そして一正を除く全員に配り、自身もフルーツ牛乳を開けた。
「戴きます」
腰に手を当て、飲み口に情熱的な接吻を交わす。喉を鳴らして液体を嚥下し、息をついた。
「ふう、やはり風呂上りは牛乳の一気飲みに限るな」
何と言うか、好みが非常にオヤジくさい。きっとニンニク料理とか仕事帰りのビールとかも大好きだ。ビール瓶片手に野球中継に熱狂するタイプだ。
そんな不毛な事を考えつつも、一正は黒木に尋ねた。
「あのー、先生…俺の分は?」
おずおずと切り出すが、黒木は冷たい目をすると吐き捨てる様に言った。
「警察に言わないだけ、ましだと思えよ。これでも私は情け深いんだ、感謝して敬え」
「…はい、すいませんでした」
素直に頭を下げる。逆らったら命が無い気がした。
「分かればいいんだ、分かれば、な」
にや、と口の端を歪める。皆の頼れる姉貴分は、それと同時に恐怖の支配者でもあった。
「ほら、飲んだら早く帰れよ。明日も学校はあるんだからな」
はーい、と声を揃える一同。
これが黒木が最後に見た、六人揃った教え子達の姿だった。

一人、また一人、と帰っていく。最後に残ったのは一正、清美、そして冬子と雪歌だった。
「じゃ、また明日ね、イッセー」
冬子はビシ、と手を上げると、冬の夜闇に消えていく。彼女は安心しきっていたのだ。雪歌は、一正を殺さないと約束してくれたのだから。
「では、さようなら」
雪歌は手を振り、ゆっくりと去っていく。一正は彼女の姿が見えなくなるまで見送ると、扉を閉めて鍵を掛けた。

数時間後、宮下家。
時計がごおんと、十二時の鐘を鳴らす。

宮下雪歌は、小刀を手に取った。そっと鞘を払い、その刃に目を落とす。
「一正君、今日は和政、兄さんの月命日だからね」
冷たい瞳は何を映すのか。それは神ですら知り得ぬ、少女の秘め事。部屋の隅で泣き続ける幼き日の自分の幻を見据え、彼女はその決意を新たにする。
「一正君、もう少しだから待っていてね。私はずっと、ずっと待っていたんだから」
机の上に置いた、朱い勾玉。和政の宝物だった二つの勾玉の一つだった。
「一正君、私のあげた、緑の勾玉…まだ、持っているの?」
どちらでもいいよ、思い出してくれるのなら。私の思いを、その緑色に似た静けさで受け止めてくれるのなら。
この、朱色にも似た激情を。この、氷の様な憎しみを。この、炎の様な愛しさを。 雪歌は一正が好きだった、現在形で、いや、現在進行形で一正の事が好きだった。彼の顔も、彼の声も、彼の眼差しも…その全てが、大好きだった。
彼を独り占めしたかった。
彼の心を自分だけで埋め尽くしたかった。
彼の傍に誰より近く、寄り添っていたかった。
けれど、彼女の思いは果てなく強く。
一正と同様に、和政の事も大事だった。
全ての決着は、今日。和政の月命日につけるつもりだった。

宮下雪歌、十六歳。
体は、氷で出来ている。

(第五章/続劇)

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