第六章/一人静かに、ただ、雪の日を唄いながら

結末から先に言おう。
一人が死に、一人が残された。
ただ、それだけの事だ。

その日の朝は、本当に静かな朝だった。小鳥の囀りさえ静まっている空は、雲一つ無い。耳が痛くなりそうなほどの静謐が、虚空を埋め尽くすのみだった。冬にしては暖かく、けれど、春と言うにはまだ寒い。風もなく、雪も半分溶けかかっていた。
冬子は一正と清美と共に、学校へと向かう。
「…ねえ、イッセー。私、黙ってた事が有るんだけど」
一正はあえて眼を合わせようとせず、何でも無い事であるかのように応じた。それが、彼なりの、彼に対する礼儀。もう一人の自分に対する礼儀だったから。
「和政の…宮下、和政の事か?」
冬子は目を見開き、歩みを止める。一正はそれに合わせて立ち止まり、今度は自分から冬子の目を見た。
「…清美。悪いけど、先に行っててくれ。俺は、冬子と少し話してから行く」
清美は無言で首を縦に振ると、学校へ向けて歩き出した。
「イッセー…覚えて、たの?」
信じられない、といった表情で呆然と尋ねる冬子。無理も無い、もし覚えていたのであれば、一正は雪歌を避けて然るべき筈なのだから。
「一昨日倒れた時に、な。ほら、この傷跡も、あの日の傷なんだろう?」
左手の甲に刻まれた、一生消えないであろう傷跡。一正はそれを冬子に見せた。
「…冬子。俺、今日雪歌に会ったら、謝ろうと思う。丁度月命日だし、和政の墓にも連れて行って貰って、あいつにも謝りたい。それで許して貰おうだなんて思っちゃないけど、それども、俺はけじめをつけたい」
和政は真剣な目で冬子を見る。
「だから、その…言いにくいけど、俺、雪歌の事が好きだから。だから、冬子…お前の気持ちには、答えてやれない。俺が好きなのは、雪歌だから」
ごめん、と頭を下げる一正。失恋したのだ、そう、知った。けれど、冬子はそれを悲しいとは思えなかった。これが、一番自然な状態だから。在るべき物が全て、在るべき場所に収まった。ただ、それだけの筈だから。
自然に、そう思う事が出来たから。
だからイッセー、そんなに辛そうな顔をしないで。私まで辛くなってしまいそうな、そんな顔をしないでよ。
冬子は、最後の勇気を奮い起こす。
「イッセー、何か勘違いしてない?」
精一杯の度胸と、気迫。崩れそうな膝を、根性で立て直す。
「私はね、確かに、少しだけ、本当に、ほんの少しだけ…イッセーの事が、好きだった」
一正は狐につままれたかの様な表情を浮かべ、冬子の顔を見る。涙を堪えながら、冬子は続けた。
「でももう、好きじゃないから。好きじゃないって、そういう事に決めたから」
一正はしばし呆然とし、やがて儚げに笑った。
「…そう、か。俺の勘違いだったか…冬子、その…これからも、友達でいてくれよ」
「当たり前じゃない。ほら、学校行きなさいよ。雪歌の奴が待ってるわよ」
ああ、もう堪えきれない。涙が溢れる。視界がぼやけ、最愛の少年の姿が霞んでいく。
「あれ、晴れてる筈なのに…雨…私、少し雨宿りしていくから…イッセー、先行ってて…」
しゃくり上げながら、冬子は必死で言葉を紡ぐ。一正は戸惑っていた様だが、意を決して、冬子に背中を見せた。
「冬子…遅刻、するなよ。俺、先行くから…」
「もう、さっさと行きなさいよ、イッセー…雨、まだ止まないから…」
ほとんど残されていない視界の端、駆け出す一正の後姿を認める。冬子は服が汚れる事も構わず、その場に膝をついた。
「何よ、イッセー…気付いてたんなら、応えてくれたって良いじゃないのよ…」
ねぇ、そうは思いませんか、先生?冬子は涙目で振り返る。
「何だ、気付いてたのか、風間」
物陰から、黒木がその姿をあらわす。何処と無く寂しそうだ。
「風間、私も雨宿りしていって良いかな?雨が止むまで、私がお前の傍に居てやるから…」
「はい、先生…有り難う、ござい、ます…」
冬子はそれだけ言うと、黒木にしがみついて号泣し始める。黒木はそっと、泣きじゃくる少女の頭を撫でた。
「風間。私もお前も、男運だけは無かったな…いや、男を見る目だけは、あったかも知れないか」
微苦笑を漏らす。黒木は大切な宝物を扱うように、己の生徒を抱き締めた。
「先…生…」
「気にするな。風間が雨に濡れない様にしてやってるだけだ」
抱き締めたのは、仄かな温もり。
それは、互いの傷を舐め合うだけなのかも知れない。
けれど、それでも。彼女達は、温もりを求める。
そこには何の意味も無く、ただ、失恋した少女達が居るだけだ。

その初恋の終わりは、こうして冬子に告げられた。

一正は走る。走る事で、冬子との間にある感情の澱みを吹き飛ばす様に。
学校が見えてきた。今日は珍しく、ありすも遅刻せずに学校に来ている。
「あ、ありす。雪歌、見たか?」
ありすは息切れする一正を見て、何かを感じ取ったらしい。す、とその目を細めると、一正を見つめた。
「思い出したんだね、イッセー君。…今日は、雪ちゃんはまだ見てないよ。教室かもね」
「そう、か」
とうに呼吸は限界だろうに、それでも一正は走り出す。よろける身体を、前に突き出した脚で支える。そしてその脚を軸にして、また大地を蹴る。無茶苦茶な走り方だったが、ありすはそれを笑わず、優しく見送った。
校庭を走り抜けた一正は、教室に飛び込んで中を見回す。
「どうしたんです、一正さん。そんなに慌てて…」
驚く祝。雪歌の姿は、無い。
「祝、雪歌は?まだ来てないか?」
「さあ…まだ、私は見ていませんが」
きょとんとした顔の祝。清美は何処と無く心配そうな表情だ。
「少し、ここで待ってみるか…」

チャイムが、鳴った。
「お前達、ちゃんと座ってるか?」
黒木が冬子を連れて教室に入ってくる。冬子は一正と目が合うと、力無く微笑んだ。ちくり、と胸が痛む。けれどその痛みを振り払う様に、一正は黒木に問い掛けた。
「先生…雪歌、今日は休みなんですか?」
「いや、そういう連絡は受けてないな」
出席簿を開きながら、黒木は一正の方を見もせずに言う。
「そう、ですか」
沈んだ声。黒木は出席簿を教卓に置くと、一正の方をちらと見、わざとらしい溜息を吐いた。
「一正。お前、宮下を探して来い。出席扱いにしておいてやる」
「…え?」
顔を上げた一正の瞳に、生気が宿る。彼は立ち上がると、教室の扉に手をかけた。
「…行ってきます、先生」
「おう。任せたからな、見つけるまでは教室に帰って来るんじゃないぞ」
一正は一礼し、ただの一度も振り返らずに廊下を駆け出した。目指すは最愛の少女、宮下雪歌。
「…なあ、私はこれで良かったんだよな?」
今は亡き友に、黒木つぐみは静かに小声で語りかけた。

宮下雪歌は、墓の前に立っていた。
雪歌は彼女自身さえ墓標と見紛う程の無表情で、外国風の造りであるその墓を眺めていた。墓は静かに、静謐な輝きを放ってそこに在った。
彫られた文字は、『KAZUMASA』。
彼女は仔犬にそうするかの如く、その墓石に優しい視線を向けた。
「兄さん、会いに来ましたよ…きっと、すぐに一正君も」
そっとしゃがみ、墓石の縁をそっと撫でる。優しく、ゆっくりと、何度でも…雪歌は兄の墓標をなぞっていた。
「兄さん…」
目を瞑り、そっと黙祷。供えられた花がただ清らかに、優しい微風に揺れていた。
氷で出来た聖女の像が、そっと微笑みを見せる様に、雪歌は和政の為に祈る。喪われた実の兄への慕情。そう括ってしまえば、そこにはそれなりの美しさがあるだろう。雪歌の美貌は、むしろその様な暗い物語こそが相応しいのではないかと思える種類の、一種病的なそれであったから。新月の夜に澱む黒を思わせる瞳の暗さ。朝の新雪に似て、見る者を魅了する雪肌。そうした彼女の美しさには、禁断の恋慕と言う言葉が良く馴染む事だろう。
けれど、今の彼女はその様な激情とはかけ離れた位置に居る。
きっとすぐに、一正君も来てくれる。和政の事を思い出したのなら、きっと。
首から下げた朱の勾玉を握り締め、雪歌は思い人の到着を待ちわびていた。

雪歌の家、何時かの川原、祝の神社。
この一週間で刻み込まれた思い出の数々を、再び辿る。しかし、雪歌の姿は何処にも無かった。
「雪歌…何処に居る…?」
走り続け、肺は既に限界を告げる。足腰の疲労も、予想以上に激しい様だ。けれど一正は弱音を吐こうとする己が身体を意識で捻じ伏せながら、思い人の姿を追い求めていた。
「雪、歌…」
一正は古い記憶を辿る。最後の希望、和政の墓を思い出す為に。
過ごしてきた時を回想し。
忘れていたい事を追憶し。
蓄積された経験を俯瞰し。
その全てを、知り尽くす。
一正は疲れた体を引きずる様に、雪歌の居場所へと向かう。雪歌の家の裏、和政の墓へと。

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